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PERSON
武田勝頼
武田勝頼
武田氏当主・甲斐守護
1546-1582 · 享年 36歳
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生涯
武田信玄の四男として甲斐国で生まれた。母は諏訪頼重の娘であったため、当初は諏訪氏を継ぐ立場だったが、長兄・義信が廃嫡・死亡したため武田家の後継者となった。1573年に信玄が没すると家督を継ぎ、強力な武田軍団を率いた。1575年の長篠の戦いでは織田・徳川連合軍と対峙したが、鉄砲を駆使した敵の新戦術の前に騎馬隊を中心とした武田軍は壊滅的な被害を受け、名将たちを多数失った。この敗戦を機に武田家は急速に衰退し、家臣の離反も相次いだ。1582年、織田信長・徳川家康・北条氏政の三方からの侵攻(甲州征伐)を受けて甲斐・信濃を次々と失い、家臣にも見捨てられた勝頼は天目山近くの田野で妻子とともに自害した。享年37歳。
人物像
勇猛果敢な武将であったが、父・信玄の巨大な遺産と重臣団の重圧に常に苦しんだ。長篠後も積極的な侵攻姿勢を維持したことは、状況判断の限界とも、絶えず攻勢を維持することが武田家存続の唯一の道であったとも評価される。家臣への信頼は厚かったが、晩年には信頼した家臣にも背かれた。
歴史的意義
長篠の戦いでの敗北は鉄砲による戦術革命の象徴的出来事として日本史に刻まれ、騎馬戦術の時代の終わりと新時代の幕開けを告げるものとして後世に語り継がれた。武田氏の滅亡は戦国時代における最も劇的な興亡の一つとして、多くの文学・映像作品に描かれている。甲府の武田神社は信玄・勝頼ら武田氏を祀り、今日も多くの崇敬を集める。
辞世の句
辞 世 の 句
討つ人も討たるる人も諸ともに 如露亦如電応作如是観
逸話・エピソード
長篠の悲劇——鉄砲三段撃ちの前に散った騎馬隊
1575年の長篠の戦いで、勝頼率いる武田軍は織田・徳川連合軍の鉄砲三段撃ち戦術の前に騎馬隊を次々と失い、壊滅的な敗北を喫した。この一戦で山縣昌景・内藤昌豊ら名将を多数失い、武田家の軍事力は取り返しのつかない打撃を受けた。勝頼は父・信玄の遺産である積極攻勢の戦略を継承していたが、時代の変化に翻弄された。
天目山の最期——家臣に見捨てられた最後の武田当主
1582年の甲州征伐で信濃・甲斐を失い、多くの家臣が寝返る中、勝頼は妻・北条夫人や嫡男・信勝とともに天目山(山梨県大和村)の麓・田野まで落ち延びた。最後まで従った家臣はわずか数十人で、その地で自刃した。享年37歳。辞世の句「討つ人も討たるる人も諸ともに 如露亦如電応作如是観」(討つ人も討たれる人も共に消えゆく露のようなものだ)は仏教的な無常観を示し、武将としての最期の矜持を伝える。
関連する歴史的事件
1582
天目山の戦い
1582年(天正10年)、甲斐国天目山(現在の山梨県甲州市)において、信長の武田攻め(甲州征伐)で追い詰められた武田勝頼が自刃し、戦国大名・武田氏が滅亡した戦い。信長・家康・北条氏が三方から攻め込むと武田軍は瓦解し、勝頼は妻の北条夫人とともに天目山田野で最期を迎えた。信玄以来の名門武田氏の終焉であり、戦国最強ともうたわれた武田騎馬隊の命脈が完全に絶えた瞬間であった。現地には武田勝頼の墓所が残り、滅亡の地として静かに歴史を伝えている。
ゆかりの地 — 3
長篠城跡
愛知県
父・信玄の後を継いだ勝頼は1万5千の兵で長篠城を包囲。老将たちの撤退の進言を退けて設楽原での決戦を選んだが、信長の鉄砲隊の前に壊滅的敗北を喫し、馬場信春・山県昌景ら重臣を失った。この敗北が武田家滅亡への第一歩となった。
設楽原古戦場
愛知県
老将たちの撤退の進言を退け、3千人ずつ5部隊に分けて騎馬突撃を敢行。信長の鉄砲隊の前に壊滅的敗北を喫し、馬場・山県・内藤ら家臣団の中核を失った。この敗北が武田家滅亡の始まりとなった。
高天神城跡
静岡県
1574年に大軍で攻め落としたが、1581年の家康の包囲戦では救援軍を送れず、飢えた城兵を見殺しにした。この失態が武田家臣団の離反を招き、翌年の武田滅亡の直接的原因となった。
─ 完 ─
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