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武田信廉(逍遥軒)
像
武田信廉(逍遥軒)
信玄の影武者を務めた画家大名
1532-1582 · 享年 50歳
ま だ 出 会 っ て い ま せ ん
大島城を訪れると出会えます
ゆかりの地 1か所
驚
へぇ、と思う三話
其 一
信玄の死を隠した影武者——甲府への静かな退却
元亀4年(1573年)4月、西上作戦の途上で武田信玄が病没すると、武田家は3年間その死を秘匿する方針をとった。信廉は骨相が信玄によく似ていたことから影武者を務め、信玄が存命であるかのように振る舞って軍勢を甲府へ無事に撤収させたとする逸話が伝わっている。側近ですら見分けがつかなかったとされるほどの再現度であったという。
其 二
大島城放棄と最期——甲州征伐がもたらした武田家中枢の崩壊
天正10年(1582年)3月、織田信忠率いる大軍が伊那谷に侵攻すると、大島城代であった信廉はほとんど抵抗せずに城を放棄し、甲斐へ退却した。しかし逃走中に捕らえられ、主君・武田勝頼が天目山で自刃してから13日後の3月24日、甲斐府中で織田方の武将によって処刑された。信廉の敗走は、御一門衆の重鎮でさえ戦意を失っていたことを示す出来事として、武田家滅亡の象徴的な場面の一つに数えられる。
地
武田信廉(逍遥軒)を訪ねる
1 ヶ所
足跡をたどって、実際に巡る。
城
大島城
長野県
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深
さらに深く
生
生涯をくわしく
生い立ちから最期まで
天文元年(1532年)、武田信虎の六男として生まれた。同母兄に武田信玄(晴信)がいる。骨相が信玄によく似ていたため影武者を務めることもあったと伝わり、元亀4年(1573年)4月に信玄が死去した際には、信廉が信玄になりすまして軍勢を無事に甲府へ引き揚げさせたとする逸話が残る。武田家中では親族衆の重鎮として重用され、永禄4年(1561年)頃から信濃国高遠城主を務め、信玄の死後は出家して「逍遥軒信綱」と号し、飯田城代・大島城代など信濃南部の要職を任された。絵師としても知られ、甲府・大泉寺所蔵の「武田信虎像」(重要文化財)をはじめ、武田家ゆかりの肖像画を複数手がけたことで名を残している。天正10年(1582年)3月、織田信忠率いる織田軍が南信濃から侵攻すると(甲州征伐)、信廉は大島城を十分な抵抗もせず放棄して甲斐へ退却した。しかし逃亡中に捕らえられ、主君・武田勝頼の自刃(3月11日)から13日後の3月24日、甲斐府中で織田方の森長可配下の武将により処刑された。享年51。
人
人物像
武勇よりも文化的才覚に秀でた人物とみられ、画家としての繊細な観察眼を持つ一方、信玄の影武者を務めるほど胆力もあったと伝わる。しかし当主・信玄や甥・勝頼のような戦局を打開する決断力には欠け、晩年の大島城放棄は武田家中の統率の乱れを象徴する出来事として語られる。
義
歴史的意義
武田信廉が手がけた「武田信虎像」は重要文化財に指定され、戦国大名の肖像画として貴重な史料となっている。信玄の影武者を務めたという逸話は、後世の武田信玄関連の物語・創作作品にもしばしば取り入れられている。信廉が最後に城代を務めた大島城(長野県松川町)は現在も台城として遺構が保存され、南信濃における武田氏の防衛拠点の歴史を伝えている。
系
家系図
親
父
1494-1574
武田信虎
甲斐国主・武田氏第18代当主。
本
本人
武田信廉(逍遥軒)
1532-1582
─ 完 ─
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