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PERSON
武田信玄
武田信玄
甲斐の虎
1521-1573 · 享年 52歳
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生涯
1521年、甲斐武田氏の第18代当主・信虎の嫡男として生まれた。1541年、家臣団と結託して父・信虎を駿河今川氏の下に追放し、甲斐の支配権を掌握。以後、信濃への侵攻を本格化させ、小笠原氏・諏訪氏・村上氏などを次々に滅ぼした。信濃支配をめぐって越後の上杉謙信と五度にわたる川中島の戦い(1553〜1564年)を繰り広げたが、決着はつかなかった。甲州法度之次第(武田家の分国法)や信玄堤(治水工事)など内政にも優れ、「人は城、人は石垣」を信条とした名君でもあった。1572年、西上作戦を発動し三万の大軍で西進。三方ヶ原の戦いで徳川家康・織田信長連合軍を大敗させた。信玄の死を恐れた信長が家康への援軍を出すなど、この時期の信玄は天下取りに最も近い存在であった。しかし1573年4月、上洛を前に信州駒場で53歳で病死(銃傷とも)。「疾きこと風の如く、徐かなること林の如く、侵掠すること火の如く、動かざること山の如し」の「風林火山」の旗印は後世に語り継がれた。
人物像
「人は城、人は石垣」と語り、家臣団の結束を重視した名君。信玄堤に代表される治水事業にも力を注ぎ、領国経営にも優れた手腕を見せた。
歴史的意義
戦国最強の武将の一人として名高い。「風林火山」の軍旗、武田騎馬軍団の伝説は後世に大きな影響を与えた。甲州法度之次第は戦国大名の分国法の代表例として知られる。
逸話・エピソード
三方ヶ原の戦いで家康を大敗させる
1572年(元亀3年)12月、三万の兵を率いて西上した信玄は、三方ヶ原(現・静岡県浜松市)で徳川家康・織田信忠連合軍(11,000人)を迎え撃った。「かがり火作戦」を用いて夜間に敵を誘い出し、鶴翼の陣(鶴が翼を広げた形)で徳川軍を包囲殲滅した。家康はわずかな供廻りとともに命からがら浜松城に逃げ帰ったと伝わる。信玄が生涯に指揮した戦いの中で、最も完璧な勝利の一つ。
「人は城、人は石垣、人は堀」の哲学
信玄は城壁に頼らず人材の育成と結束を重視した。「人は城、人は石垣、人は堀、なさけは味方、仇は敵なり」(人こそが城であり石垣であり堀である。慈悲の心が味方を集め、薄情は敵を作る)という言葉を残した。この信念のもと武田家臣団の結束は非常に強く、信玄死後も勝頼の代まで維持された。現在も経営哲学の言葉として広く引用される。
ゆかりの地 — 32
諏訪大社
長野県
武田信玄は諏訪大社上社を深く信仰し、合戦の際には必ず戦勝を祈願した。天文11年(1542年)に諏訪を支配するにあたり諏訪氏を滅ぼした後も、諏訪の神を守護神として崇め、自軍の旗印には「風林火山」とともに諏訪明神の神紋を掲げた。諏訪は武田氏にとって信濃支配の精神的支柱であり、信玄は社殿の造営・修復を継続的に支援した。
駿府城
武田信玄は1568年に駿河侵攻を開始し、今川氏真を追って駿府城(今川館)を占拠した。以後、駿府は武田氏の支配下に入り、信玄は駿河を武田領として組み込んだ。信玄死後は家康が奪還し、後に大規模な城郭として整備した。
松代城
永禄3年(1560年)頃、山本勘助が縄張りして築かれた海津城(現・松代城)は、信玄が川中島合戦の最前線基地として整備した。第四次川中島の戦い(1561年)では、謙信の奇襲に対して海津城から兵を出撃させ、八幡原での決戦に臨んだ。信玄の信濃支配の拠点城であり、北信濃経営の中核を担った。
掛川城
武田信玄は遠江侵攻において掛川城の攻略を目指した。信玄が遠江に進出することで今川旧臣たちの帰趨が問われ、掛川城をめぐる争奪戦は遠州の支配権を決する重要な軍事的焦点となった。
恵林寺
山梨県
信玄は生前から恵林寺を武田家の菩提寺と定め、深く帰依した。元亀4年(1573年)に没した際、遺言に従いここに葬られた。信玄の墓所(信玄公廟)は今も境内に鎮座し、多くの崇拝者が参拝に訪れる。天正10年(1582年)、織田信長の甲斐侵攻の際に当寺が焼打ちにされたのも、武田氏との深い縁を示す歴史的事実である。
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─ 完 ─
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