character/[id]

PERSON
滝廉太郎
滝廉太郎
「荒城の月」「花」——23歳で逝った天才作曲家
1879-1903 · 享年 24歳
+ 推しに追加
家系図を見る
生涯
1879年(明治12年)8月24日、東京・芝に内務官僚・瀧吉弘の長男として生まれた。父の転任に従い神奈川・富山・大分を転々とし、富山時代(小学校)にピアノに出会う。1894年、東京音楽学校(現・東京藝術大学)予科に入学、ピアノ・作曲を専攻。幸田延(こうだのぶ)・ルドルフ・ディットリヒらに師事。1898年本科卒業、研究科に進み1900年(明治33年)は最も創作意欲に満ちた年で、「荒城の月」(土井晩翠詩)「箱根八里」「花」「お正月」「鳩ぽっぽ」など今なお愛唱される名曲を次々と生み出した。特に「荒城の月」は会津若松城・仙台青葉城を念頭に作詞された土井の詩に、滝が大分・岡城の廃城の面影を重ね作曲したとされる。1901年4月、日本人音楽家として3人目のヨーロッパ留学生として出発、ドイツ・ライプツィヒ音楽院に入学、ロベルト・タイヒミュラーにピアノを、ザーロモン・ヤーダスゾーンに作曲を学んだ。しかし留学5ヶ月後の1901年10月、結核を発症し入院。翌1902年10月に帰国を余儀なくされ、故郷の大分で療養生活を送った。1903年6月29日、大分市稲荷町で死去、享年23歳(満)。
人物像
温和で内省的、深い感受性と音楽的天才を併せ持つ。父譲りの真面目さ、母譲りの繊細さで、幼少期から漢詩・絵画・ピアノに才能を示した。短期間で驚異的な作品数を遺した「天才型」の作曲家。日本の伝統と西洋音楽の融合を模索し、日本人として初の本格的クラシック作曲を確立した先駆者。
歴史的意義
滝廉太郎の23年の生涯で確実に遺された作品は34曲とされるが、その多くが今も日本人に愛唱される不朽の名曲となった。「荒城の月」は山田耕筰により編曲され、世界中で歌われている。大分県竹田市には岡城跡と「滝廉太郎記念館」(旧居)があり、竹田市立滝廉太郎記念館として公開。毎年6月29日の命日には追悼行事が行われる。日本近代音楽の礎を築いた最初の作曲家として、日本音楽史上不朽の存在。
逸話・エピソード
1900年——「荒城の月」誕生
1900年(明治33年)、東京音楽学校研究科に在学中の滝は、文部省編纂『中学唱歌』のため土井晩翠の詩「荒城の月」に曲を付けた。土井の詩は仙台・青葉城や会津若松城の面影を詠んだとされるが、滝は幼少期を過ごした大分・竹田の岡城址の荒涼たる風景を重ねて作曲したと伝わる。ロ短調の荘重な旋律は、戦国の興亡と人生の無常を象徴し、日本で最も愛される唱歌のひとつとなった。現在も岡城址では「荒城の月」がメロディーチャイムで流される。
1901年——ライプツィヒ留学と結核
1901年4月、滝は文部省派遣留学生として横浜を出港、5月にドイツ・ライプツィヒに到着、ライプツィヒ音楽院に入学。幸田延(先輩留学生)に続き日本人音楽家として3人目のヨーロッパ留学だった。しかし入学からわずか5ヶ月後の10月に結核を発症、ドレスデンの病院に入院。当時結核は不治の病。1902年10月帰国を余儀なくされ、故郷大分で療養生活に入った。療養中に書いたピアノ曲「憾(うらみ)」は、23歳の短い生涯を嘆く絶筆とされ、哀切な旋律が今も聴く者の涙を誘う。
─ 完 ─
📱
アプリで巡礼を楽しむ
App Store からダウンロード
T · O · K · U