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PERSON
田中角栄
田中角栄
「今太閤」と呼ばれた庶民派宰相
1918-1993 · 享年 75歳
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生涯
1918年5月4日、新潟県刈羽郡二田村(現・柏崎市)の貧しい農家・田中角次の長男として生まれた。地元の二田尋常高等小学校卒業のみで上京、土木建築業に従事しながら独学で土木設計を学び、19歳で田中土建工業を創業。戦時中は朝鮮半島で土木事業を展開し財を成す。1947年、新潟3区から日本進歩党公認で衆議院議員に初当選(28歳)。以後、16期連続当選。1957年第1次岸内閣の郵政大臣(39歳の若さ)、1962年池田内閣の大蔵大臣、1971年第3次佐藤内閣の通産大臣などを歴任、自民党幹事長も4期務めた。1972年7月7日、第64代内閣総理大臣に就任、54歳の若さで「今太閤」と呼ばれた。同年9月25日訪中、9月29日北京で日中共同声明に調印、日中国交正常化を実現。「日本列島改造論」を掲げ太平洋ベルト地帯への一極集中を打開する大規模公共投資を推進したが、第一次オイルショック(1973年)と狂乱物価を招き1974年12月退陣。1976年7月27日、ロッキード事件で5億円の受託収賄罪により逮捕。一審・二審で実刑判決を受けるも上告中の1993年12月16日、東京・信濃町の慶應病院で甲状腺機能障害により75歳で没、公訴棄却となった。
人物像
エネルギッシュにして人懐っこい、生粋の人たらしの政治家。「メモ魔」と呼ばれるほど数字と人名を記憶する驚異的な頭脳の持ち主。「コンピューター付きブルドーザー」と評された。学歴に頼らず実力でのし上がった経歴ゆえ、官僚にも親しまれた。陳情者を「上り(東京到着)何時、下り(地元戻り)何時」まで覚え、「俺はあの時お前にこう約束した」と確実に実行する義理堅さで知られた。豪放磊落で酒豪、しゃがれ声と「よっしゃよっしゃ」が口癖。
歴史的意義
日中国交正常化は田中政治最大の歴史的業績として今日も高く評価されている。「日本列島改造論」の理念は、地方分散・新幹線網・高速道路網整備として戦後インフラの基盤を築いた一方、地価高騰・公共事業依存・利益誘導政治の弊害も生んだ。ロッキード事件は戦後最大の汚職事件として政治不信の象徴となった反面、田中没後の角栄ブーム(特に2010年代以降)では「庶民の宰相」「決断力のある政治家」として再評価が続く。「田中派」「経世会」は最大派閥として竹下登・橋本龍太郎・小渕恵三・小沢一郎らを輩出。新潟県柏崎市の田中の生家近くには田中角栄記念館が建つ。娘・田中真紀子も外務大臣を務めた。
逸話・エピソード
日中国交正常化——1972年9月の北京
1972年7月7日に首相就任した田中は、わずか2ヶ月後の9月25日、現職首相として戦後初めて中国を訪問。9月27日、毛沢東主席との会談で「ご迷惑をかけた」発言が物議を醸すも、9月29日に周恩来首相と日中共同声明に調印、日中国交正常化が成立した。準備期間わずか2ヶ月での電撃的訪中は、ニクソン訪中(1972年2月)に刺激された政治決断であった。同時に台湾(中華民国)との外交関係は断絶せざるを得ず、これは現在まで続く日台関係の難しさの起点ともなった。田中は「政治家とは決断する者」を体現する出来事として、この日中国交正常化を最大の業績と位置づけた。
ロッキード事件と「闇将軍」——1976年
1976年2月4日、米上院多国籍企業小委員会(チャーチ委員会)でロッキード社副会長コーチャンが、全日空のトライスター旅客機売り込みに絡み日本の政府高官に5億円が渡されたと証言。捜査の結果、田中前首相が現職時代に丸紅を通じて5億円を受領したとして、7月27日に東京地検特捜部に逮捕された。8月17日に保釈、1983年10月12日に第一審で懲役4年・追徴金5億円の実刑判決。控訴審でも実刑が維持され、最高裁上告中に1993年田中は死去、公訴棄却となった。逮捕後も新潟3区から圧倒的得票で当選を続け、自民党を離脱しても田中派(後の経世会)を率いて政界の最大実力者「闇将軍」として中曽根康弘・竹下登らの首相選任に影響力を行使し続けた。
名言
「まあそう言うな。人間というものは顔を見て話せばだいたいわかる」
─ 完 ─
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