生没年不詳ながら1157年頃の生まれとされる。木曽義仲(源義仲)の愛妾にして女武者。「平家物語」巻九「木曽の最期」によれば「色白く髪長く、容顔まことに優れたり。強弓精兵、一人当千の兵者なり」と描写される、当時類まれな女性武将であった。義仲が北陸の倶利伽羅峠の戦いや篠原の戦いで平氏を破って入京するまでの諸戦に従軍し、常に義仲の側近として戦った。1184年1月、後白河法皇との関係が悪化した義仲は源義経・範頼の軍に追い詰められた。宇治川・瀬田の戦いを経て粟津の戦いで義仲は絶体絶命の状況に陥った。巴御前は最後まで義仲のそばを離れなかったが、義仲は「女を連れていたとは後世に言われたくない、どこかへ落ちのびよ」と命じた。巴御前は敵将・恩田八郎を組み伏せてその首を取り、鎧武者を圧する武力を示した後に東国に落ちていったと伝わる。その後の消息は諸説あり、信濃に戻ったとも、越中に留まったとも、義仲の遺児を産んだとも、尼となったとも伝えられる。