1593年、豊臣秀吉の次男(事実上の嫡男)として大坂城に生まれた。長男・鶴松は夭折していたため、57歳の秀吉にとって待望の後継者であった。秀吉は秀頼の将来のために五大老・五奉行体制を整え、諸大名に秀頼への忠誠を誓わせた。1598年に秀吉が没すると、わずか6歳で豊臣家の当主となった。しかし1600年の関ヶ原の戦いで徳川家康が天下の実権を握ると、豊臣家は摂津・河内・和泉65万石の一大名に事実上転落した。成長とともに身長6尺5寸(約197cm)と伝えられる偉丈夫となり、その器量と人望に危機感を抱いた家康は着々と豊臣家を弱体化させた。1614年、方広寺鐘銘事件を口実に大坂冬の陣が勃発。和睦後も翌1615年に大坂夏の陣が起こり、真田幸村(信繁)ら浪人衆の奮戦もむなしく敗北した。1615年6月、母・淀殿と共に大坂城で自害し、豊臣家は滅亡した。享年23歳。