1556年(弘治元年)、越後国魚沼郡上田庄の坂戸城にて、上田長尾氏当主・長尾政景の次男として生まれた。母は上杉謙信の異母姉・仙洞院。1564年に父・政景が溺死すると、叔父・謙信の養子となった。1578年、謙信が急死すると、同じく養子の上杉景虎(北条氏康の七男)との間で「御館の乱」と呼ばれる壮絶な後継者争いが勃発。武田勝頼の仲介を得て景虎を滅ぼし、上杉家の家督を継いだ。豊臣秀吉に臣従後は五大老の一人に任じられ、1598年に会津120万石に転封された。しかし1600年の関ヶ原の戦いでは西軍に与し、直江兼続が指揮する最上攻めを展開したが、西軍敗北の報を受けて撤退。戦後、徳川家康により会津120万石から出羽米沢30万石に大減封された。以後は家臣団を一人も解雇せず、米沢の地で質素倹約に努めながら上杉家の存続に尽くした。1623年(元和9年)、米沢にて69歳で死去。生涯を通じて寡黙で笑顔を見せることが稀だったと伝えられ、その実直な人柄は「義の武将」として後世に称えられている。