「相模の獅子」——北条氏康の関東支配と「三国同盟」
北条氏康は関東の覇権をめぐって上杉謙信・武田信玄と激しく争い、「相模の獅子」と称された。1551年の河越夜戦では大軍の扇谷上杉軍を夜襲で撃破し、関東支配を確立した。また武田・今川との「三国同盟」を結んで後方を安定させ、関東全域への影響力拡大を図った。善政で知られ、領内の検地・税制整備など内政にも優れた成果を残した。
北条氏綱は伊勢宗瑞(北条早雲)の嫡男として後北条氏の基盤を固めた。氏名を「伊勢」から「北条」に改め、鎌倉幕府の名門北条氏との関連を主張して政治的権威を高めた。1524年に江戸城を攻略して関東への進出を加速し、相模・武蔵を支配下に置いた。息子の氏康に強固な体制を引き渡し、後北条氏の最盛期の土台を作った。
北条氏政の時代——後北条氏の最盛期と秀吉の天下統一
北条氏政は父・氏康の後を継いで後北条氏の最盛期を率いた。しかし豊臣秀吉の天下統一の動きに抵抗し、1590年の小田原攻めで秀吉軍に包囲された。約100日間の籠城の末に降伏し、弟の氏照とともに切腹を命じられた。「二膳飯の氏政」(味噌汁を二回かけて食べる優柔不断さを揶揄)の逸話が知られるが、実際には関東の統治者として相応の政治手腕を示した。
北条氏直は父・氏政のあとを継いで後北条氏最後の当主となった。豊臣秀吉の小田原攻め(1590年)では100日以上の籠城戦を展開したが、最終的に開城・降伏した。父・氏政・叔父・氏照は切腹を命じられたが、徳川家康の娘婿だった氏直は高野山への追放で命を救われた。しかし同年高野山で病死し、後北条氏は事実上滅亡した。