1572年、備前国岡山城主・宇喜多直家の嫡男として生まれる。1581年に父が病死すると、わずか10歳で広大な備前・美作・備中の領国を継いだ。秀吉はこの有力大名の後継者を手厚く庇護し、自らの猶子(養子に準じる関係)とした。1584年には秀吉の養女で前田利家の四女・豪姫を正室に迎え、秀吉政権の中枢に深く取り込まれた。やがて57万4千石の大々名として五大老(徳川家康・前田利家・毛利輝元・小早川隆景・宇喜多秀家)の一角を占め、政権の柱石となった。朝鮮出兵(文禄・慶長の役)にも出陣し武功を立てた。関ヶ原の戦い(1600年)では石田三成・大谷吉継らと西軍を組み、宇喜多勢1万7千の兵を率いて奮戦したが、小早川秀秋の裏切りで形勢が逆転し敗走。薩摩の島津氏を頼って落ち延びた後、1603年に八丈島への流罪となった。島では農業を営みながら50年余りの余生を静かに送り、1655年に83歳で没した。戦国大名の中で特筆すべき長寿を誇った。