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PERSON
柳生十兵衛
柳生十兵衛
隻眼の剣豪
1607-1650 · 享年 43歳
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生涯
1607年(慶長12年)、柳生新陰流の達人にして将軍指南役・柳生宗矩の嫡男として生まれた。幼少より剣術の才に恵まれ、父・宗矩から新陰流を学んだ。若くして右目の視力を失ったとされるが、その原因については父との稽古中の事故、鷹狩りの際の負傷、生来の隻眼など諸説あり、真相は定かではない。1616年(元和2年)頃、9歳にして三代将軍・徳川家光に近侍したが、1631年(寛永8年)、24歳で突如家光のもとを去り、以後12年間の「空白の期間」に入る。この12年間に何をしていたかは全く記録になく、公儀隠密として諸国を巡っていたとする説、武者修行に出ていたとする説、父との確執で蟄居していたとする説など様々な伝説が生まれた。1643年(寛永20年)に復帰し、小田原藩主に仕えたとも伝わる。兵法書『月之抄』を著し、柳生新陰流の理論を体系化した。この著作は新陰流の「懸待一致」(攻めと待ちの一体化)の極意を記した重要文献である。1650年(慶安3年)、鷹狩りの最中に突然倒れ、44歳で急死した。死因については脳卒中、暗殺、持病の悪化など諸説あるが、はっきりとした記録はない。その謎めいた生涯は後世の創作意欲を大いに刺激し、講談・小説・映画・漫画・ゲームなど、日本の時代劇フィクションで最も多く題材にされた剣豪と言っても過言ではない。
人物像
寡黙にして豪胆。隻眼のハンデを物ともせず剣の道を極めた求道者。12年間の沈黙を守り通した忍耐力と、復帰後に兵法書を著す知性を併せ持った。
歴史的意義
柳生新陰流の理論家として『月之抄』を残し、後世の剣術研究に大きな影響を与えた。しかしそれ以上に、謎に満ちた生涯が無数のフィクション作品の題材となり、日本のポップカルチャーにおける「最強の剣豪」イメージを確立した。映画・小説・漫画・ゲームの世界で今なお圧倒的な存在感を誇る。
逸話・エピソード
隻眼の謎——右目を失った理由
十兵衛が右目の視力を失った経緯は最大の謎の一つである。最も有名な説は、幼少期に父・宗矩との剣術稽古中に木刀で右目を打たれたというもの。他にも鷹狩りの際に鷹の爪で傷つけられた説、幼少時の病気による説、さらには生まれつきの隻眼であったとする説もある。いずれの説にも確証はなく、十兵衛自身も理由を語った記録は残っていない。後世のフィクションでは眼帯をした剣豪として描かれることが多いが、実際に眼帯をしていたかどうかも定かではない。
消えた12年間——最大のミステリー
1631年から1643年までの12年間、十兵衛は公式記録から完全に姿を消した。将軍家光に近侍していた若き剣豪が突然消えた理由について、江戸時代から現代まで様々な説が唱えられてきた。幕府の隠密として諸国の情勢を探っていたとする「公儀隠密説」、各地の剣客と試合を重ねていたとする「武者修行説」、父・宗矩との意見の相違で謹慎させられたとする「蟄居説」などがある。この空白期間が後世の作家たちの想像力を刺激し、忍者として活躍する十兵衛、諸国漫遊する十兵衛など無数の物語が生み出された。
謎の急死——鷹狩りの最期
1650年(慶安3年)3月、十兵衛は鷹狩りの最中に突然倒れ、そのまま帰らぬ人となった。享年44歳。その急死の原因も諸説あり、脳卒中などの病死説、何者かによる暗殺説、持病が急変したとする説などがある。武芸の達人がなぜ突然命を落としたのか、その最期もまた謎に包まれている。奈良県柳生の里にある芳徳寺に墓所があり、現在も十兵衛ゆかりの地として多くの剣術愛好家が訪れている。
名言
「剣は心なり。心正しければ剣もまた正し」
「月の抄に曰く、「水月の位」とは敵の動きを水面に映る月の如く映すことなり」
「勝ちを急ぐ者は、すでに負けの種を蒔いている」
ゆかりの地 — 1
柳生陣屋跡
奈良県
柳生十兵衛三厳は柳生宗矩の嫡男として生まれ、この陣屋で育った。将軍家光に仕えたが、寛永3年(1626年)に突如小姓を免ぜられ、以降12年間の浪人生活を送った。その間諸国を廻り剣術修行に明け暮れたとされ、復帰後は柳生藩の藩政にも携わった。
この人物のクイズ
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