1563年頃、諸国を遍歴していた剣聖・上泉信綱が大和国を訪れた。当時の宗厳はすでに複数の流派を修め、自らの剣に絶大な自信を持っていた。しかし信綱との立ち合いで完膚なきまでに敗れ、自分の剣がまだ未熟であることを思い知らされた。この敗北は宗厳の人生最大の転機となった。宗厳は即座に弟子入りを願い出て、信綱から新陰流の奥義を授けられた。「最大の敗北が最大の師を得る機縁となった」として、武道における師弟関係の理想として語り継がれている。
1594年、徳川家康が柳生庄を訪れ、宗厳に剣の演武を所望した。67歳の老齢であった宗厳は、真剣を持った相手に対し素手で立ち向かい、相手の刀を奪い取る「無刀取り」を披露した。力ではなく心と技で刀を制するこの奥義に、家康は深く感銘を受けた。家康は宗厳に柳生家200石の知行を与え、仕官を求めたが、宗厳は「老骨にはもはや戦場に立つ力がございません」と辞退し、代わりに五男の宗矩を推薦した。この出来事が柳生家と徳川家の結びつきの始まりとなった。
宗厳は隠居後、「石舟斎」と号した。「石の舟」とは、一見すると矛盾した言葉である。石は沈み、舟は浮くもの——しかし宗厳は、沈むはずの石が舟となる不動の境地、すなわち万物の理に逆らわず、それでいて流されない心の在り方を表現した。剣の道を極めた末に至った境地は、もはや剣を振るうことではなく、心の不動にあった。この号は柳生新陰流の精神性を端的に示すものとして、後世の武道家たちに深い感銘を与え続けている。