山名祐豊
山名祐豊
戦国大名・但馬守護、山名氏当主
1511-1580 · 享年 69歳
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此隅山城を訪れると出会えます
ゆかりの地 1か所
山名祐豊を訪ねる
1 ヶ所
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生涯
永正8年(1511年)、但馬守護・山名致豊の次男として生まれる。享禄元年(1528年)、叔父・山名誠豊の死去に伴い山名氏の家督を継いだ。当時、山名一族は但馬守護家と因幡守護家に分裂していたが、天文17年(1548年)に従兄弟の因幡守護・山名誠通を破ってこれを統一した。但馬国内でも生野銀山の経営に力を注ぎ、天文11年(1542年)の発見後は先祖伝来の生野城を大改修するなど、経済基盤の強化を図った。山名氏歴代の本拠・此隅山城を守護所として拡張整備したが、永禄12年(1569年)8月、織田信長の命を受けた木下秀吉(のちの豊臣秀吉)らの侵攻により此隅山城を含む但馬18城が落去し、祐豊は堺へ逃れた。その後、堺の豪商・今井宗久の仲介で信長に帰参を許され、天正2年(1574年)頃、新たに有子山城を築いて居城とした。しかし天正8年(1580年)4月、羽柴秀長率いる再度の但馬侵攻を受け、5月16日に有子山城は落城。祐豊は同月21日、城内で病没した。享年70。
人物像
分裂していた山名一族を武力で統一する行動力を持つ一方、生野銀山経営など経済基盤の強化にも意を用いた戦国大名。信長への帰参など、時流を見極める柔軟さも備えていた。
歴史的意義
此隅山城跡は「山名氏城跡」として有子山城跡とともに国指定史跡となっており、但馬の戦国史・山名氏の盛衰を伝える貴重な遺構として今も訪れる人が絶えない。
─ 完 ─
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