山中幸盛(鹿介)
山中幸盛(鹿介)
尼子再興に生涯を捧げた忠臣
1545-1578 · 享年 33歳
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上月城を訪れると出会えます
ゆかりの地 2か所
山中幸盛(鹿介)を訪ねる
2 ヶ所
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生涯
天文14年(1545年)、尼子氏の家臣・山中満幸の子として生まれる。幼名は甚次郎。若くして武勇に優れ、永禄9年(1566年)に主家・尼子氏の本拠月山富田城が毛利元就の攻撃で落城し尼子氏が滅亡すると、浪人となった幸盛は尼子氏再興のため京都東福寺にいた尼子一族の勝久を擁立し、生涯にわたり三度の再興運動を展開した。三日月に「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」と祈ったという逸話は、忠義の武将として後世広く語り継がれる。天正4年(1576年)には織田信長に臣従し、明智光秀・羽柴秀吉のもとで転戦。天正6年(1578年)2月、秀吉が播磨・上月城を攻略するとその守備を主君・尼子勝久とともに任されたが、同年4月、毛利氏の3万余の大軍に包囲され、秀吉の後詰も三木合戦を優先して撤退したため孤立。7月5日に開城・降伏し、勝久は切腹、幸盛は人質として毛利輝元のもとへ護送される途中、備中国合(阿井)の渡(現・岡山県高梁市)で毛利家臣・福間元明に謀殺された。享年34。
人物像
主家再興のために三度も兵を挙げ、最期まで主君・尼子勝久の助命を毛利方に嘆願し続けた不屈の忠臣。「七難八苦」を自ら求める逸話は、苦難を恐れぬ精神の象徴として近代日本の修身教育にも取り上げられた。
歴史的意義
上月城は尼子勝久・幸盛主従が最期を迎えた地として知られ、境内に近い上月歴史資料館などで両者の顕彰が今に伝わる。「忠義の武将」として山陰地方を中心に今なお高い人気を誇る。
さらに深く
家系図
家系の記録は未登録です。
─ 完 ─
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