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PERSON
横山大観
横山大観
近代日本画の巨匠
1868-1958 · 享年 90歳
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生涯
1868年(明治元年)、常陸国水戸(現・茨城県水戸市)に旧水戸藩士・酒井捨彦の長男として生まれた。本名・秀麿、後に横山姓に改めた。1889年、東京美術学校(現・東京藝術大学)日本画科第一期生として入学、岡倉天心・橋本雅邦・川端玉章らに師事。1893年首席で卒業、母校助教授に就任した(1896年)。1898年、岡倉天心の東京美術学校排斥事件(美校騒動)に殉じて辞任、菱田春草・下村観山・西郷孤月らとともに天心が新たに設立した「日本美術院」(谷中)に参加。同院で春草とともに線描を抑え色彩のみで形を表現する革新的描法「朦朧体(もうろうたい)」を創始したが、当初は「不明瞭」と酷評された。1903年インド・ベンガル湾を、1904年米国ニューヨーク・ボストン・ロンドン・パリを巡遊、東洋的精神性と西洋技法の融合を模索。1914年、天心の死去(1913年)後、観山とともに日本美術院を再興(再興院展)、近代日本画壇の中心人物となる。1923年制作の『生々流転』(全長40.7メートル)は、水の一滴が雲となり川となり海となる輪廻を描いた水墨画の金字塔(重要文化財)。1937年、第一回文化勲章受章。1958年2月26日、東京・上野池之端の自宅で89歳で没。
人物像
岡倉天心への絶対的な敬慕と忠誠、伝統への深い造詣と新しい表現への飽くなき探究心を併せ持つ。「大観」の号は天心が与えたもので、生涯天心の理想を体現することに尽力した。富士山を生涯約1,500点描き、日本の精神性の象徴と捉えた。酒豪としても知られ、「酔うて画く」と公言し、酒なくして筆を執らなかったエピソードも多い。終生独身で、絵画一筋の人生であった。
歴史的意義
近代日本画の確立者にして最大のスター。岡倉天心の理想を継承し、戦前戦後を通じて日本画壇の中心として活動した。代表作『生々流転』(東京国立近代美術館)『屈原』『無我』『紅葉』『夜桜』など多数が国宝・重要文化財。1937年第一回文化勲章、戦後も1937年・1955年・1958年の三回、皇居宮殿の襖絵を担当。生地茨城県水戸市と上野池之端に横山大観記念館があり、約2,000点の作品を所蔵・展示。富士山の絵で知られ、「日本画=大観」のイメージは戦後も長く続いた。
逸話・エピソード
『生々流転』——日本画の最長傑作
1923年(大正12年)、大観は54歳で『生々流転』を制作した。全長40.7メートルにわたる絵巻物形式の水墨画で、水の一滴が雲となり、雨となり、川となり、海となり、再び龍となって天に昇る輪廻転生を描いている。日本近代美術史上最長の作品で、第10回再興院展に出品された直後、関東大震災で日本美術院(谷中)は焼失したが、この作品は奇跡的に救出された。1962年に重要文化財指定、現在東京国立近代美術館所蔵。
富士山約1,500点——日本精神の象徴
大観は生涯にわたり富士山を約1,500点描いた。彼にとって富士は単なる風景ではなく、日本人の精神性・神聖性・崇高性を象徴する存在であった。「私が富士を描くのは、日本そのものを描くこと」と語り、1947年(昭和22年)の戦後復興期には『或る日の太平洋』『某日富士』など、敗戦に打ちひしがれた日本人を励ます作品を制作した。皇室にも多数献上され、迎賓館や宮中の重要な装飾画として用いられた。富士は大観のトレードマークとなり、「富士=大観」のイメージが定着した。
─ 完 ─
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