character/[id]

PERSON
源頼朝
源頼朝
鎌倉幕府初代将軍
1147-1199 · 享年 52歳
+ 推しに追加
家系図を見る
生涯
1147年、源義朝の三男として尾張国で生まれる。1159年の平治の乱で父が敗死し、わずか14歳で伊豆国蛭ヶ小島に配流された。20年に及ぶ流人生活の中で北条時政の娘・政子と結婚し、着実に支持基盤を築いた。1180年、後白河法皇の皇子・以仁王が発した打倒平氏の令旨を受けて挙兵し、富士川の戦いで平氏を破った。東国武士団を御家人として組織し、鎌倉を拠点に支配を固め、弟・義経に壇ノ浦(1185年)で平氏を滅ぼさせた。同年に守護・地頭を全国に設置し、朝廷に対して武士の支配権を承認させた。1192年に征夷大将軍に任じられて日本初の武家政権・鎌倉幕府を正式に開いた。御恩(土地給与)と奉公(軍役)を原則とする主従制度を確立し、以後約700年続く武士政権の原型を作り上げた。幕府安定のために活躍した弟・義経や範頼を厳しく粛清し、晩年は後継問題にも悩まされた。1199年、相模川の橋供養からの帰途に落馬し、同年52歳で急死した。
人物像
冷静沈着で戦略的な思考を持つ政治家。感情を表に出さず、長期的な視点で行動した。功臣に対しても疑心が強く、義経や範頼など身内も粛清した。御家人との主従関係を重んじ、御恩と奉公の原則を武家社会に定着させた。
歴史的意義
日本初の武家政権・鎌倉幕府を創設し、以後約700年続く武士による統治の礎を築いた。守護・地頭制度は中世日本の土地支配の基本となり、武家社会の法的・行政的な枠組みを確立した。鎌倉は政治・文化の中心地として発展し、禅宗や武家文化が花開く場となった。
逸話・エピソード
石橋山の奇跡
挙兵直後の石橋山で大敗するも、敵将・梶原景時が「頼朝はここにはおらぬ」と味方を欺き、頼朝を見逃した。この恩で景時は後に幕府の重臣となった。
源頼朝 年表
1147
源頼朝、源義朝の三男として誕生
1159
平治の乱。父・義朝が敗死
1160
伊豆国へ流罪(13歳)
1177
北条政子と結婚
1180
以仁王の令旨を受け挙兵。鎌倉入り
1183
木曽義仲を追討
1184
一ノ谷の戦い
1185
壇ノ浦の戦いで平氏滅亡。守護・地頭を設置
1189
奥州藤原氏を滅ぼす
1190
上洛し後白河法皇と会見
1192
征夷大将軍に任命。鎌倉幕府成立
1199
落馬が原因で死去(53歳)
関連する歴史的事件
1159
平治の乱
1159年、平清盛が熊野参詣で不在の隙をついて源義朝・藤原信頼が起こしたクーデター。信頼・義朝は三条殿を焼いて後白河上皇・二条天皇を幽閉したが、帰京した平清盛の軍勢に反撃され敗れた。源義朝は東国へ逃れる途中、尾張で家人に裏切られて殺された。義朝の子・頼朝は伊豆に流刑となり、後に鎌倉幕府を開くこととなる。義経の兄・今若(義円)・乙若は幼少ながら捕らえられ殺害された。この乱で平氏の覇権が確立し、平清盛の独裁政権が成立する直接の契機となった。
平治の乱で父・源義朝が敗れ、頼朝は捕らえられて伊豆国蛭ヶ小島へ流罪となった。この流人の身が20年後に打倒平氏の兵を挙げることとなる。
もっと見る(残り 12 件)
ゆかりの地 — 163
寿福寺
神奈川県
寿福寺は頼朝の父・源義朝の旧邸跡に建てられた。頼朝自身はこの地に寺を建てることを願っていたとされ、死後に妻・政子がその遺志を継いで創建した。源氏の本拠地としての歴史を受け継ぐ鎌倉五山第三位の名刹である。
鶴岡八幡宮
神奈川県
治承4年(1180年)、頼朝は由比若宮を現在地に遷座し、鶴岡八幡宮として鎌倉の総鎮守とした。若宮大路を整備し、参道を鎌倉の中心軸に据えることで、武家政権の威信を示す都市計画の要とした。
住吉大社
大阪府
鎌倉幕府を開いた源頼朝は住吉大社を篤く崇敬し、社領の寄進や社殿修造の支援を行った。全国に武家政権を確立する過程で、航海守護と和歌の神として名高い住吉三神への信仰を重んじ、以後北条氏・足利氏へと続く武家による住吉崇敬の先鞭をつけた。
毛越寺
岩手県
1189年、頼朝は弟・義経をかくまった奥州藤原氏を攻め滅ぼした(奥州征伐)。毛越寺の最盛期を支えてきた藤原氏の庇護が失われると、40の塔堂と500の僧坊を誇った大寺院は急速に衰退し、堂宇はことごとく失われた。現代に残るのは浄土庭園の遺構だけである。
日光東照宮
源頼朝は日光山を崇敬し、滝尾神社にも社領を寄進して二荒山神社と共に保護した。
もっと見る(残り 158 件)
この人物のクイズ
5問のクイズに挑戦
日本史力診断テストで出題されます
─ 完 ─
📱
アプリで巡礼を楽しむ
App Store からダウンロード
T · O · K · U