生年は不詳。大友氏重臣・吉岡氏当主の妻で、夫は天正6年(1578年)の耳川の戦いで戦死した。夫の死後、剃髪して妙林尼と号し、子・吉岡統増の後見として鶴崎城を実質的に取り仕切った。天正14年(1586年)12月、島津軍の豊後侵攻に際し、城主・統増が府内(現・大分市)の防衛に出て不在となった鶴崎城を、老臣とわずかな農民のみで守ることになった妙林尼は、農民に鉄砲の扱いを教え、城下に偽の陣地や罠を仕掛けるなどの奇策を用いて、押し寄せる島津軍を16度にわたって撃退したと伝わる。最終的には城兵の助命を条件に開城したが、その巧みな籠城戦は敵将・島津方からも称賛されたと伝わる。天正19年(1591年)に没したとされる。