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PERSON
新田義貞
新田義貞
鎌倉幕府を倒した武将
1301-1338 · 享年 37歳
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生涯
鎌倉末期・南北朝時代の武将。上野国新田荘(現・群馬県太田市周辺)を本拠とする新田氏の当主。1333年、後醍醐天皇の倒幕の綸旨を受け挙兵。武蔵野を経て稲村ヶ崎で刀を海に投げ入れ(「稲村ヶ崎の奇跡」)、引き潮に乗って鎌倉に突入したという伝説的なエピソードで知られる。鎌倉を陥落させ、北条高時ら一族を滅ぼして鎌倉幕府に終止符を打った。建武の新政下では後醍醐天皇の側近として重用されたが、足利尊氏との対立が激化。以後、南朝方の中心武将として各地を転戦した。1338年、越前国藤島(現・福井県)での戦いで敵の流れ矢に当たり38歳で戦死した。楠木正成とともに「大楠公・大新田」として明治期に顕彰された。
人物像
猪突猛進の勢いと忠義心を持つ武将。策略より正面突破を好む豪直な気性で、後醍醐天皇への忠誠を最後まで貫いた。戦略家としての足利尊氏には及ばなかったが、その勇猛さは後世に語り継がれた。
歴史的意義
鎌倉幕府滅亡の最大の功績者。稲村ヶ崎の伝説は今も鎌倉市民に語り継がれ、藤沢市の藤沢山無量光院清浄光寺(遊行寺)や新田義貞公之像などに遺徳が偲ばれる。明治政府に「忠臣」として顕彰されたことで、南朝正統論の象徴となった。
逸話・エピソード
鎌倉幕府滅亡——新田義貞と稲村ヶ崎の奇跡
新田義貞は後醍醐天皇の倒幕の令旨を受けて挙兵し、1333年に鎌倉に攻め込んだ。正面突破が困難と見ると、稲村ヶ崎の浜から海を渡る迂回作戦を決行し、幕府を背後から奇襲した。北条高時は東勝寺で自害し、鎌倉幕府は滅亡した。その後も建武の新政・南北朝の戦いで南朝方として戦い続け、1338年に越前で討ち死にした。
新田氏の祖——源氏の名門から新田氏の確立へ
新田義重は源義国の子として新田荘(現・群馬県太田市)を拠点に新田氏を確立した。源頼朝の挙兵時に参加を見送ったため鎌倉幕府での立場は弱かったが、上野国(群馬県)に根を張り名門として存続した。子孫の新田義貞が鎌倉幕府を滅ぼして南北朝時代の主役となったことで、新田氏は日本史上の重要な一族として後世に語り継がれることになった。
新田義興——義貞の子と江の島の悲劇
新田義興は新田義貞の次男として南朝方の武将として活躍した。父の死後も南朝の旗手として関東での戦いを続けたが、1358年に武蔵国矢口渡(現・東京都大田区)で足利方の謀略に遭い、船を沈められて溺死した。義興の霊は怨霊として恐れられ、矢口渡に義興を祀る新田神社が建立された。歌舞伎「神霊矢口渡」など江戸文化でも語り継がれる悲劇の武将。
脇屋義助——兄・義貞を支えた南朝の武将
脇屋義助は新田義貞の弟として南北朝の戦いに終始南朝方として参加した。義貞の挙兵から鎌倉攻め、建武の新政崩壊後の戦いまで、兄とともに南朝の将として各地を転戦した。義貞の死後は後継として四国・伊予で南朝勢の再建を図ったが、1352年に病没した。新田一族の結束と南朝への忠義を示す武将として南北朝期の歴史に名を刻む。
─ 完 ─
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