新田義貞は後醍醐天皇の倒幕の令旨を受けて挙兵し、1333年に鎌倉に攻め込んだ。正面突破が困難と見ると、稲村ヶ崎の浜から海を渡る迂回作戦を決行し、幕府を背後から奇襲した。北条高時は東勝寺で自害し、鎌倉幕府は滅亡した。その後も建武の新政・南北朝の戦いで南朝方として戦い続け、1338年に越前で討ち死にした。
新田義重は源義国の子として新田荘(現・群馬県太田市)を拠点に新田氏を確立した。源頼朝の挙兵時に参加を見送ったため鎌倉幕府での立場は弱かったが、上野国(群馬県)に根を張り名門として存続した。子孫の新田義貞が鎌倉幕府を滅ぼして南北朝時代の主役となったことで、新田氏は日本史上の重要な一族として後世に語り継がれることになった。
新田義興は新田義貞の次男として南朝方の武将として活躍した。父の死後も南朝の旗手として関東での戦いを続けたが、1358年に武蔵国矢口渡(現・東京都大田区)で足利方の謀略に遭い、船を沈められて溺死した。義興の霊は怨霊として恐れられ、矢口渡に義興を祀る新田神社が建立された。歌舞伎「神霊矢口渡」など江戸文化でも語り継がれる悲劇の武将。
脇屋義助は新田義貞の弟として南北朝の戦いに終始南朝方として参加した。義貞の挙兵から鎌倉攻め、建武の新政崩壊後の戦いまで、兄とともに南朝の将として各地を転戦した。義貞の死後は後継として四国・伊予で南朝勢の再建を図ったが、1352年に病没した。新田一族の結束と南朝への忠義を示す武将として南北朝期の歴史に名を刻む。