東京市小石川(現・文京区)に生まれ、京都で育つ。父・小川琢治は地質学者、兄弟にも学者が多い学術的な家庭で育った。京都帝国大学理学部で物理学を学び、1933年に大阪帝国大学(現・大阪大学)助教授に就任した。1934年11月、原子核内に中間子(中性子と陽子を結びつける力の媒介粒子)の存在を予言する「中間子理論」を発表した。この理論は当初国際的にほぼ無視されたが、1947年にイギリスのパウエルらが宇宙線観測でパイ中間子(π中間子)を実際に発見し、湯川理論の正しさが証明された。1949年、日本人として初めてノーベル物理学賞を受賞した。敗戦から4年後という時期の受賞は、打ちひしがれた日本国民に大きな希望と誇りをもたらした。晩年は核兵器廃絶運動「パグウォッシュ会議」に参加し、科学者として平和を訴えた。著書「旅人」は自伝的随筆として多くの読者に愛された。京都大学基礎物理学研究所(現・湯川記念館)は物理学研究の国際的拠点として今も活動している。享年74歳。