戦国・安土桃山時代の武将。信濃国(現・長野県)の真田氏の二男として生まれ、本名は真田信繁。父・昌幸・兄・信之とともに武田氏滅亡後の信濃を生き抜き、父・昌幸の策謀で関ヶ原の戦い(1600年)前には東西両軍の板挟みとなった。第一次上田合戦(1585年)・第二次上田合戦(1600年)では父と共に徳川軍を撃退した。関ヶ原の戦いでは西軍に属し、昌幸・信繁父子は九度山(現・和歌山県)に配流された。14年の配流生活ののち、大坂の陣(1614-1615年)で豊臣方に参加。冬の陣では「真田丸」という出城を築いて徳川軍を苦しめ、夏の陣では伊達政宗軍を撃破し家康本陣に肉薄するほどの大奮戦を見せたが、最後は壮絶な最期を遂げた。享年49歳。「日本一の兵」と称えた島津忠恒の言葉が後世に伝わる。