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名鉄小牧駅徒歩20分
愛知県小牧市堀の内1-1
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小牧市に位置する小牧山に築かれた城跡で、織田信長が初めて手がけた本格的な山城。永禄6年(1563年)に信長が西尾張の拠点として自ら縄張りを設計し築城した。石垣を本格的に採用した先進的な城郭で、信長が岐阜に移った後は廃城となったが、天正12年(1584年)の「小牧・長久手の戦い」では徳川家康がこの山を陣地として利用した。現在は模擬天守(小牧市歴史館)が建ち、山頂からは濃尾平野を一望できる。信長の城郭史における転換点として歴史的に重要な城址である。
永禄6年(1563年)、織田信長が西尾張支配の拠点として小牧山に築城した。信長自ら縄張りを設計したとされ、石垣を本格的に採用した先進的な山城として城郭史上の画期をなす。山麓から山頂にかけて郭を配した構造は、後の近世城郭に通じる設計思想を示すと評価される。永禄10年(1567年)、信長が稲葉山城(岐阜城)を攻略して岐阜へ本拠を移すと、小牧山城は廃城となった。しかし天正12年(1584年)、羽柴秀吉と徳川家康・織田信雄連合軍が争った「小牧・長久手の戦い」において、家康はこの山を本陣として活用し、土塁や堀を築いて防衛拠点とした。江戸時代以降は城としての機能を持たず、山はそのまま残された。明治以降、近…
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1584年(天正12年)、尾張国小牧・長久手(現在の愛知県小牧市・長久手市)において、羽柴秀吉軍と徳川家康・織田信雄連合軍が激突した戦い。局地戦では家康軍が秀吉の別働隊を長久手で破る大勝を収めたが、戦局全体では秀吉が優勢であった。最終的には信雄が秀吉と単独講和し、家康も孤立を避けて戦線を離脱。軍事的には引き分けながら政治的には秀吉が優位を保つ形で決着した。この戦いは家康が秀吉と直接対峙した唯一の戦いであり、両者の力量が拮抗していたことを示す重要な合戦として位置づけられる。
永禄6年(1563年)、信長は自ら縄張りを設計して小牧山城を築いた。石垣を本格採用した革新的な城郭で、岐阜移転までの約4年間、尾張支配の拠点として機能した。信長の城郭技術の先進性を示す最初の傑作であり、後年この山を陣地に使った家康も信長の遺産を活用した形となった。
1584年、25,000の兵を率いて犬山城に陣を構え、家康が防備を固めた小牧山に対して2kmの防壁を築いて対峙。直接攻撃を避け、池田恒興に三河中入り作戦を指示したが、長久手で家康に撃破された。しかし戦後の外交で信雄と和睦し、戦略的勝利を収めた。
天正12年(1584年)、羽柴秀吉と対立した家康は小牧山に陣を敷いた。この「小牧・長久手の戦い」では家康が小牧山城を主城として秀吉の大軍と対峙し、戦術的には優位を保ったとされる。この戦いが後の秀吉との和解・臣従関係へとつながった。
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