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高遠城
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高遠城
創建
1547
種別
アクセス
JR伊那市駅からバス約25分
長野県伊那市高遠町東高遠
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基本情報
創建 1547
479年目
概要
武田信玄が整備した伊那谷支配の要衝で、天正10年(1582年)の武田征伐では仁科盛信(信玄の五男)が5万の織田軍にわずか3千で立ち向かい壮絶な最期を遂げた悲劇の城として知られる。現在は城址公園として整備され、固有種タカトオコヒガンザクラ約1,500本が咲き誇る日本有数の桜の名所として全国的に有名。春には薄紅色の花が山城の石垣に映える絶景となり、「天下第一の桜」とも称される花見の名所として多くの観光客が訪れる。
由緒
高遠城の起源は中世に遡り、高遠氏が築いた山城が始まりとされる。戦国時代に入ると諏訪氏の支配下に置かれたが、天文16年(1547年)に武田信玄が伊那谷に侵攻し、城を攻略・整備して甲斐武田氏の伊那支配の重要拠点とした。信玄は城を大改修し、三峰川と藤沢川に挟まれた天然の要害を活かした堅固な山城に仕上げたとされる。武田氏滅亡の際、天正10年(1582年)、織田信長の大軍(約5万)が侵攻すると、城主・仁科盛信(信玄の五男)はわずか約3千の兵で籠城し壮絶な抵抗を見せたが、落城し盛信は自刃して果てた。江戸時代には保科氏・鳥居氏・内藤氏らが城主を務め、高遠藩3万3千石の藩庁として機能した。明治維新後の廃城令に…
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織田信長とのつながり
天正10年(1582年)3月2日、織田信忠率いる5万の大軍が高遠城を包囲。仁科盛信は3千ともされる兵力で徹底抗戦し、城内に火を放ちながら自刃した。信長はこの戦いの直後に本能寺で命を落とすことになるが、高遠城での仁科盛信の最期は武士の本懐として後世に語り継がれる。
武田信玄とのつながり
武田信玄が整備した高遠城は伊那谷支配の要衝。信玄の五男・仁科盛信が城主となり、武田氏の南信濃支配を担った。信玄の厳しい軍制と城郭整備の精神は盛信に受け継がれ、織田軍との最後の決戦でその真価を示すこととなった。

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