畠山重忠
畠山重忠
坂東武者の鑑
1164-1205 · 享年 41歳
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菅谷館を訪れると出会えます
ゆかりの地 1か所
畠山重忠を訪ねる
1 ヶ所
足跡をたどって、実際に巡る。
菅谷館
埼玉県
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畠山重忠 年表
1164
畠山重忠、武蔵国に生まれる
1180
源頼朝の挙兵に加わる
1184
一ノ谷の戦いで馬を背負い崖を下る逸話
1189
奥州合戦に従軍
1205
北条時政の謀略により二俣川で討たれる(42歳)
さらに深く
生涯をくわしく
生い立ちから最期まで
長寛2年(1164年)、武蔵国男衾郡(現・埼玉県深谷市)に畠山重能の子として生まれた。武蔵国男衾郡菅谷(現・埼玉県比企郡嵐山町)に館を構え、鎌倉街道の要衝を押さえる拠点とした。源頼朝の挙兵に応じて御家人となり、寿永3年(1184年)の一ノ谷の戦いでは急峻な鵯越の坂を馬とともに下ったと伝わる剛勇の逸話で知られ、「坂東武者の鑑」と称され頼朝からも厚く信頼された。元久2年(1205年)6月、北条時政の後妻・牧の方の讒言により子・重保が由比ヶ浜で討たれると、報せを受けた重忠は弁明のため菅谷館を発って鎌倉へ向かったが、6月22日、武蔵国二俣川(現・横浜市旭区)で北条義時率いる大軍に包囲され、主従わずか136騎で奮戦の末に討死した(畠山重忠の乱、享年42)。事件は後に無実と判明し、牧の方は流罪、時政は失脚した。
人物像
武勇に優れるだけでなく清廉潔白で情け深い人柄から「坂東武者の鑑」と評された。頼朝への忠誠を終生貫き、非を明らかにするため寡兵と知りつつ鎌倉へ向かった生き様に武士としての矜持が表れている。
歴史的意義
菅谷館跡は国指定史跡・続日本100名城に選ばれ、重忠の館跡として今も多くの人が訪れる。冤罪による非業の死は後世に語り継がれ、鎌倉武士の理想像として能や歌舞伎の題材にもなった。
家系図
家系の記録は未登録です。
─ 完 ─
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