長寛2年(1164年)、武蔵国男衾郡(現・埼玉県深谷市)に畠山重能の子として生まれた。武蔵国男衾郡菅谷(現・埼玉県比企郡嵐山町)に館を構え、鎌倉街道の要衝を押さえる拠点とした。源頼朝の挙兵に応じて御家人となり、寿永3年(1184年)の一ノ谷の戦いでは急峻な鵯越の坂を馬とともに下ったと伝わる剛勇の逸話で知られ、「坂東武者の鑑」と称され頼朝からも厚く信頼された。元久2年(1205年)6月、北条時政の後妻・牧の方の讒言により子・重保が由比ヶ浜で討たれると、報せを受けた重忠は弁明のため菅谷館を発って鎌倉へ向かったが、6月22日、武蔵国二俣川(現・横浜市旭区)で北条義時率いる大軍に包囲され、主従わずか136騎で奮戦の末に討死した(畠山重忠の乱、享年42)。事件は後に無実と判明し、牧の方は流罪、時政は失脚した。