character/[id]

PERSON
法然
法然
浄土宗開祖
1133-1212 · 享年 79歳
+ 推しに追加
家系図を見る
生涯
1133年、美作国(現・岡山県)の押領使・漆間時国の子として生まれた。9歳のとき、父が夜討ちで命を落とすという悲劇を経験した。父は臨終に「仇を憎まず、仏道に入れ」と遺言したという。比叡山に登り天台教学・戒律・禅・密教を徹底的に学び、「智恵第一の法然房」と称されるほどの学僧となった。しかし学問だけでは万人の救済は叶わないという内なる問いに悩み続けた。43歳のとき、善導の『観経疏』の「一心専念弥陀名号」の一文に、誰もが「南無阿弥陀仏」を唱えるだけで極楽往生できるという専修念仏の真髄を見出した。1175年、浄土宗を開宗し、貴族から武士・庶民にいたるまで身分を問わない布教活動を展開した。弟子には親鸞・証空・弁長らが集った。旧仏教勢力の強い反発を受け、1207年の承元の法難では讃岐に流罪となり、弟子4名が死罪となった。翌年に赦免されて京都に戻り、1212年1月に80歳で入寂した。浄土宗の総本山・知恩院(京都市)は法然を祀る寺として現在も篤く信仰されている。
人物像
温厚で慈悲深い人柄。学識は比叡山随一と称されながらも、庶民の目線に立って分かりやすく教えを説いた。どんな人にも等しく接する姿勢が多くの信者を惹きつけた。
歴史的意義
日本仏教史上最大の改革者の一人。専修念仏は庶民に仏教を開放し、親鸞・一遍ら弟子たちの浄土教諸宗派の源流となった。知恩院が総本山。
辞世の句
辞 世 の 句
光明遍照十方世界 念仏衆生摂取不捨
逸話・エピソード
専修念仏の革命
「南無阿弥陀仏」と唱えるだけで誰でも救われると説き、仏教を貴族から民衆へ解放した。既存の宗派から激しい弾圧を受けた。
名言
「念仏を申さば、仏になるべし」
「念仏申さんと思い立つ心のおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずかるなり」
関連する歴史的事件
1200
鎌倉文化
12〜13世紀、武士政権の成立とともに展開した力強く写実的な文化。公家文化(伝統)と武家文化(新興)、宋・元からの新しい影響が融合した。彫刻では運慶・快慶ら慶派が東大寺南大門金剛力士像(1203年)、興福寺北円堂無著・世親像などの傑作を残した。建築では東大寺南大門の大仏様、円覚寺舎利殿の禅宗様が伝来。鎌倉新仏教(法然・浄土宗、親鸞・浄土真宗、一遍・時宗、栄西・臨済宗、道元・曹洞宗、日蓮・日蓮宗)が庶民に広まった。文学では『平家物語』『方丈記』(鴨長明)『徒然草』(吉田兼好)の三大随筆、勅撰和歌集『新古今和歌集』(1205年・藤原定家ら撰)が成立。
ゆかりの地 — 3
延暦寺横川
滋賀県
法然(1133-1212年)は15歳で比叡山に登り、横川を含む比叡山一帯で長く修行した。源信の『往生要集』を読んで専修念仏の道に目覚めたとされ、横川の恵心堂は源信ゆかりの地として法然・親鸞らの浄土思想の源流となった。
源光寺
大阪府
建永元年(1206年)、法然上人は四天王寺参詣の折に荒廃していた当寺を嘆き、再興に尽力した。その際、自ら「源をはづねてぞ知るこの寺の 光あまねき法のともしび」と詠んだ歌に因み寺号を「源光寺」と改め、浄土宗に改宗させた。法然は専修念仏を唱え日本浄土教を大成した宗祖であり、摂津国では四天王寺との関連で多くの寺院と縁を持つが、源光寺は法然自らが再興し命名した希有な寺院として、浄土宗史においても重要な位置を占める。
光照寺
東京都
光照寺は法然を宗祖とする浄土宗に属し、増上寺の末寺として念仏信仰を伝えてきた。境内には室町時代(15世紀)の法然上人画像が所蔵されており、新宿区登録文化財に指定されている。専修念仏を説いた法然の教えは、武家から庶民まで広く浸透し、江戸時代には増上寺を頂点とする関東浄土宗寺院のネットワークを形成。光照寺もその一翼を担い、出羽松山藩酒井家の菩提寺として武家社会の信仰を支え、同時に「諸国旅人供養碑」に見られるように庶民の死者をも弔う場として機能した。
─ 完 ─
📱
アプリで巡礼を楽しむ
App Store からダウンロード
T · O · K · U