1570年9月、顕如は信長の石山明け渡し要求を拒否し、全国の門徒に「信長は仏敵である」と檄文を発して蜂起を呼びかけた。以後10年にわたり、加賀・越前・伊勢長島・紀伊など各地の一向一揆が信長軍と激戦を繰り広げた。毛利水軍による兵糧搬入(木津川口の戦い)では信長の海上封鎖を一度は破り、信長に鉄甲船の建造を余儀なくさせた。信長の天下統一事業において、最も手強い相手は武田でも上杉でもなく、この本願寺であったとさえ言われる。
武田信玄の姪との婚姻——宗教勢力と戦国大名を結んだ政略結婚
顕如の正室・如春尼は、左大臣三条公頼の三女であり、武田信玄の正室・三条の方の妹、すなわち信玄の義妹(姪と表記される史料もある)にあたる。この婚姻は証如の代に成立したもので、本願寺と武田氏を姻戚関係で結びつけた。信玄は加賀・越中の一向一揆を通じて北陸の上杉謙信を牽制し、顕如は武田氏を反信長同盟の主力として頼った。1572年に信玄が西上作戦を開始すると、顕如は伊勢長島や近江の門徒を蜂起させて信長の背後を脅かした。戦国大名の軍事力と宗教勢力の動員力を結ぶ、この時代屈指の戦略的婚姻であった。
反信長包囲網の司令塔——本願寺ネットワークが動かした戦国大名
1570年から1582年まで、顕如は石山本願寺にあって武田信玄・朝倉義景・浅井長政・毛利輝元・上杉謙信ら反信長勢力の間で連絡・調整役を果たした。本願寺は全国津々浦々に末寺・道場・門徒を持ち、その情報網は戦国大名を凌ぐ規模だった。信玄の西上、朝倉・浅井の挙兵、毛利水軍の出動など、各勢力の動きは顕如の書状によって連動した。信長がこの包囲網を「四方敵だらけ」と嘆いた背景には、顕如の巧みな外交があった。単なる宗教指導者ではなく、戦国最大級の戦略家でもあったことが、近年の研究で再評価されている。
1580年・石山退去——10年戦い抜いた城を後にする時
天正8年(1580年)閏3月、顕如は正親町天皇の勅命による和睦を受諾し、40年近く本願寺の本山であり、10年間戦場となった石山本願寺を退去した。この日、顕如は書院で最後の勤行を務め、門徒・坊官・女房衆を前に「仏法のために戦いしことに悔いなし。されど門徒を死なすことこれ以上能わず」と語ったと伝わる。一方、長男・教如はこの和睦に納得せず、父の退去後も1580年8月まで籠城を続けた(新門派の抵抗)。顕如は紀伊鷺森へと向かい、その途上で涙ながらに石山の方角を振り返ったという。退去の翌日、謎の火災で石山本願寺は全焼し、跡地には後に豊臣秀吉が大坂城を築くことになる。