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PERSON
本願寺顕如
本願寺顕如
石山の法主
1543-1592 · 享年 49歳
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生涯
1543年(天文12年)、本願寺第10世証如の嫡男として京都山科に生まれた。幼名は茶々丸、諱は光佐。1554年(天文23年)、父の急逝により11歳(数え12歳)で第11世法主を継承した。祖父・証如の代から続く一向宗の教勢拡大路線を受け継ぎ、左大臣三条公頼の娘で武田信玄の姪にあたる如春尼を正室に迎え、武田氏との絆を強めるとともに朝倉・浅井・三好・毛利ら各地の大名との婚姻外交を展開した。1570年(元亀元年)9月、織田信長が石山本願寺の明け渡しと矢銭5千貫の上納を要求したことに対し、顕如は「信長は仏敵なり」と断じて全国の門徒に檄文を発し挙兵。以後10年にわたる石山合戦が始まった。加賀・越前・伊勢長島・紀伊・大坂など各地の一向一揆が同時多発的に蜂起し、毛利水軍・雑賀衆・根来衆と連携して信長を苦しめ続けた。下間頼廉ら坊官が軍事を統率し、門徒の団結力で最強の戦国大名と互角に渡り合った。しかし1574年の伊勢長島、1575年の越前、1580年の加賀と一向一揆の拠点が次々と信長に制圧され、最後の拠点・石山本願寺も孤立した。1580年(天正8年)閏3月、正親町天皇の勅命による和睦を受諾し、40年以上拠点とした石山本願寺を退去。紀伊鷺森御坊に移り、後に和泉貝塚、1591年(天正19年)には豊臣秀吉から京都堀川七条の寺地を寄進されて移座した(現在の西本願寺の前身)。1592年(文禄元年)11月24日、京都で50歳で没した。
人物像
信仰に篤く、門徒の団結を重視した宗教指導者。信長という最強の敵を相手に10年間戦い抜いた胆力の持ち主。一方で和睦を決断した現実的判断力も持ち合わせていた。
歴史的意義
信長を最も苦しめた宗教勢力の指導者として知られる。石山合戦は日本史上最大の宗教戦争であり、本願寺退去後の跡地には大坂城が築かれた。浄土真宗本願寺派の教団を守り抜いた功績は大きい。
辞世の句
辞 世 の 句
千代までと 契りし法の 本願を むなしく果てぬ 事ぞかなしき
逸話・エピソード
石山合戦——信長を10年苦しめた宗教戦争
1570年9月、顕如は信長の石山明け渡し要求を拒否し、全国の門徒に「信長は仏敵である」と檄文を発して蜂起を呼びかけた。以後10年にわたり、加賀・越前・伊勢長島・紀伊など各地の一向一揆が信長軍と激戦を繰り広げた。毛利水軍による兵糧搬入(木津川口の戦い)では信長の海上封鎖を一度は破り、信長に鉄甲船の建造を余儀なくさせた。信長の天下統一事業において、最も手強い相手は武田でも上杉でもなく、この本願寺であったとさえ言われる。
武田信玄の姪との婚姻——宗教勢力と戦国大名を結んだ政略結婚
顕如の正室・如春尼は、左大臣三条公頼の三女であり、武田信玄の正室・三条の方の妹、すなわち信玄の義妹(姪と表記される史料もある)にあたる。この婚姻は証如の代に成立したもので、本願寺と武田氏を姻戚関係で結びつけた。信玄は加賀・越中の一向一揆を通じて北陸の上杉謙信を牽制し、顕如は武田氏を反信長同盟の主力として頼った。1572年に信玄が西上作戦を開始すると、顕如は伊勢長島や近江の門徒を蜂起させて信長の背後を脅かした。戦国大名の軍事力と宗教勢力の動員力を結ぶ、この時代屈指の戦略的婚姻であった。
反信長包囲網の司令塔——本願寺ネットワークが動かした戦国大名
1570年から1582年まで、顕如は石山本願寺にあって武田信玄・朝倉義景・浅井長政・毛利輝元・上杉謙信ら反信長勢力の間で連絡・調整役を果たした。本願寺は全国津々浦々に末寺・道場・門徒を持ち、その情報網は戦国大名を凌ぐ規模だった。信玄の西上、朝倉・浅井の挙兵、毛利水軍の出動など、各勢力の動きは顕如の書状によって連動した。信長がこの包囲網を「四方敵だらけ」と嘆いた背景には、顕如の巧みな外交があった。単なる宗教指導者ではなく、戦国最大級の戦略家でもあったことが、近年の研究で再評価されている。
1580年・石山退去——10年戦い抜いた城を後にする時
天正8年(1580年)閏3月、顕如は正親町天皇の勅命による和睦を受諾し、40年近く本願寺の本山であり、10年間戦場となった石山本願寺を退去した。この日、顕如は書院で最後の勤行を務め、門徒・坊官・女房衆を前に「仏法のために戦いしことに悔いなし。されど門徒を死なすことこれ以上能わず」と語ったと伝わる。一方、長男・教如はこの和睦に納得せず、父の退去後も1580年8月まで籠城を続けた(新門派の抵抗)。顕如は紀伊鷺森へと向かい、その途上で涙ながらに石山の方角を振り返ったという。退去の翌日、謎の火災で石山本願寺は全焼し、跡地には後に豊臣秀吉が大坂城を築くことになる。
名言
「仏敵信長を討つべし。これ仏法のための戦いなり」
「仏法のために戦いしことに悔いなし。されど門徒をこれ以上死なすこと能わず」
関連する歴史的事件
1570
石山合戦
1570年から1580年までの10年間続いた、織田信長と石山本願寺(顕如)の戦争。信長の天下統一事業の中で最も長く抵抗した勢力であった。大坂湾に面した石山本願寺(現在の大阪城の位置)は要害堅固な城塞と化し、毛利氏の海上補給、雑賀衆の鉄砲、全国の本願寺門徒の結束を背景に、信長軍を10年にわたり苦しめ続けた。1576年の第一次木津川口の戦いでは毛利水軍・雑賀衆が織田水軍を大破。1578年の第二次木津川口では九鬼嘉隆の鉄甲船により形勢逆転したが、なお本願寺は持ちこたえた。最終的に1580年、正親町天皇の勅命による和睦で終結し、顕如は石山を退去した。しかし長男・教如は徹底抗戦を主張し父と袂を分かつ。この家族内対立は、後の1602年の東西本願寺分裂に繋がる伏線となった。
ゆかりの地 — 2
西本願寺
京都府
天正19年(1591年)、豊臣秀吉は本願寺11世・顕如に現在の堀川六条の地を寄進し、天満から最後の移座を果たさせた。石山合戦の敗北後、紀州鷺森・和泉貝塚・天満と流転を重ねてきた顕如にとって、京都の地で新たな本山を構えることは悲願であった。顕如は移座の翌年、天正20年(1592年)に50歳で入寂。この寄進地こそ、現在も続く西本願寺の礎となった。顕如の生涯最後の大事業であり、石山退去から11年を経てようやく本願寺教団は恒久の本拠を得たのである。
大坂城
大阪府
大坂城が築かれた上町台地北端の地は、元々は本願寺11世・顕如が法主を務めた石山本願寺の境内そのものであった。元亀元年(1570年)から天正8年(1580年)までの10年にわたる石山合戦で織田信長と死闘を繰り広げた顕如は、正親町天皇の勅命による講和を受け入れて紀州鷺森へ退去。退去の際に本願寺は炎上した。その跡地に天正11年(1583年)、信長の後継者となった豊臣秀吉が大坂城の築城を開始。淀川と大和川に挟まれた天然の要害という立地を見抜いていた点でも、信長・秀吉と顕如の戦略眼は一致していた。大阪のシンボル・大阪城はまさに顕如の本願寺の記憶の上に築かれている。
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