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大坂城
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大坂城
大阪府
創建
1583
種別
アクセス
JR大阪城公園駅から徒歩約15分
大阪府大阪市中央区大阪城
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基本情報
創建 1583
443年目
概要
天正11年(1583年)に豊臣秀吉が石山本願寺跡に築いた天下の居城。慶長20年(1615年)の大坂夏の陣で落城後、徳川幕府が再建。現在の天守は1931年再建で大阪のシンボルとして親しまれる。周囲の石垣と堀の規模は日本屈指の壮大さを誇り、大阪城公園として整備された広大な敷地には年間を通じて多くの観光客・市民が訪れる。豊臣・徳川の歴史が交差する日本を代表する名城のひとつ。
由緒
天正11年(1583年)、豊臣秀吉が石山本願寺跡地に築城を開始。黒田孝高の縄張り、加藤清正ら奉行が指揮し、小豆島などから大石を運んで本丸・二の丸・三の丸を段階的に整備、豊臣政権の本拠となった。慶長19-20年(1614-1615年)の大坂の陣で、冬の陣の和議で惣構・三の丸・二の丸が埋められ、夏の陣で落城、豊臣氏は滅亡した。元和6年(1620年)から寛永6年(1629年)にかけて徳川秀忠が天下普請として西国大名を動員、豊臣期の遺構を埋めて高さ約32メートルの石垣と三重櫓12基を備えた徳川大坂城を新造した。慶応4年(1868年)の戊辰戦争で本丸御殿が焼失し、以後は大阪砲兵工廠などの陸軍用地となる。…
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1585
桃山文化
16世紀末、織田信長・豊臣秀吉の天下統一期に花開いた豪華絢爛な文化。戦国武将の富と権勢を反映し、金碧障壁画・巨大天守・茶の湯・能・歌舞伎踊りなどが発展した。安土城(1579年・信長)・大坂城(1583年・秀吉)・伏見城など巨大天守閣が相次いで築かれ、城郭建築の頂点を迎えた。障壁画では狩野永徳『唐獅子図屏風』『洛中洛外図屏風』、子・狩野山楽、長谷川等伯『松林図屏風』『智積院襖絵』、海北友松らが活躍。千利休が侘び茶を大成(1585年頃・北野大茶湯、1587年)。出雲阿国の「かぶき踊り」(1603年)が歌舞伎の源流となった。朝鮮出兵(文禄・慶長の役)を機に朝鮮陶工が九州各地に伝来し、有田焼・萩焼・薩摩焼などの陶磁器文化が興った。
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1614
大坂冬の陣
1614年(慶長19年)、徳川家康が豊臣秀頼の籠る大坂城(現在の大阪府大阪市)を約20万の大軍で包囲した戦い。「方広寺鐘銘事件」を口実に始まったこの攻城戦では、真田幸村(信繁)が築いた「真田丸」が家康軍を苦しめた。最終的には外堀を埋める条件で和議が成立したが、家康は二の丸・三の丸の堀まで埋めさせ、翌年の夏の陣で豊臣氏を滅ぼす布石とした。幸村の奮戦は今も語り継がれ、大坂城は豊臣滅亡の地として多くの人が訪れる。
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1615
大坂夏の陣
1615年(慶長20年)5月、堀を埋め立てられた丸裸の大坂城を再び家康率いる徳川軍が攻撃した戦い。真田幸村(信繁)は道明寺の戦い・天王寺口の戦いで壮絶な戦いぶりを見せ、家康の本陣にまで迫ったと伝わる。しかし数の差はいかんともしがたく、豊臣軍は壊滅。大坂城は炎上し、豊臣秀頼と母・淀殿は自害した。百万石の豊臣氏はここに滅亡し、徳川氏による天下統一が完成した。幸村の最期は「日本一の兵(つわもの)」として後世に語り継がれている。
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本願寺顕如とのつながり
大坂城が築かれた上町台地北端の地は、元々は本願寺11世・顕如が法主を務めた石山本願寺の境内そのものであった。元亀元年(1570年)から天正8年(1580年)までの10年にわたる石山合戦で織田信長と死闘を繰り広げた顕如は、正親町天皇の勅命による講和を受け入れて紀州鷺森へ退去。退去の際に本願寺は炎上した。その跡地に天正11年(1583年)、信長の後継者となった豊臣秀吉が大坂城の築城を開始。淀川と大和川に挟まれた天然の要害という立地を見抜いていた点でも、信長・秀吉と顕如の戦略眼は一致していた。大阪のシンボル・大阪城はまさに顕如の本願寺の記憶の上に築かれている。
雑賀孫市とのつながり
天正4年(1576年)から天正8年(1580年)にかけて、雑賀孫市(鈴木孫一)率いる雑賀衆は、織田信長に抵抗する石山本願寺を支援し、大坂の地で壮絶な籠城戦を展開した。雑賀衆は当時最先端の鉄砲集団として知られ、その精確な射撃で信長軍を苦しめた。大坂城はこの石山本願寺の跡地に築かれており、孫市ら雑賀衆の奮戦はこの地の戦国史における重要な一幕である。
豊臣秀吉とのつながり
天正11年(1583年)、秀吉が石山本願寺の跡地に築城を開始した天下の居城。「三国無双」と謳われた壮大な城は豊臣政権の象徴であり、大坂の陣での落城まで豊臣家の本拠として日本の中心に君臨した。
真田幸村とのつながり
大坂冬の陣(1614年)で、幸村(信繁)は城の南側に出丸「真田丸」を独自に築き、徳川の大軍を迎え撃った。真田丸からの砲撃と奇襲は徳川軍に甚大な被害を与え、幸村の名を天下に轟かせた。
石田三成とのつながり
秀吉の側近として大坂城の行政を取り仕切り、豊臣政権の奉行として活躍した。秀吉没後も大坂城を豊臣家の拠点として守り続け、関ヶ原合戦で敗れて処刑されるまで豊臣家への忠節を貫いた。

ゆかりの人物
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