天文19年(1550年)、神吉城主・神吉頼氏の子として生まれる。神吉氏は赤松氏の庶流で、播磨国印南郡神吉(現・兵庫県加古川市神吉町)に一万石を領した。天正6年(1578年)、羽柴秀吉による播磨侵攻(三木合戦)に際し、主家筋にあたる三木城主・別所長治側に与し、別所氏から援兵約1800を受けて神吉城に籠城した。同年6月23日に始まった神吉城攻めでは織田信忠・明智光秀・佐久間信盛・荒木村重ら約3万の大軍を相手に約2000の兵で奮戦し、緒戦の大村坂の戦いでは織田方を撃退する戦果を挙げたと伝わる。しかし佐久間信盛の調略により叔父・神吉貞光が織田方に寝返り、頼定は同年7月16日、28歳で落命し神吉城も落城した(暗殺されたとする説と、討死したとする説がある)。