1562年、尾張国中村(愛知県名古屋市)に生まれ、秀吉の母・大政所の従姉妹の子という遠縁にあたる。幼少期から秀吉に近侍し、1583年の賤ヶ岳の戦いでは七本槍筆頭として奮戦。この武功で一躍名を上げた。1592〜1593年と1597〜1598年の二度の朝鮮出兵では数多くの戦いに参加し、朝鮮・明の軍勢と激戦を繰り広げた。「虎退治」の逸話はこの朝鮮での武功が誇張されて生まれた伝説である。秀吉死後は武断派の中心人物として石田三成と激しく対立し、1600年の関ヶ原では福島正則らと共に東軍の先鋒として参戦。家康の勝利に大きく貢献し、戦後に肥後熊本藩54万石を得た。築城の名手でもあり、1601年から熊本城の大改修に着手して難攻不落の堅城を作り上げた。名古屋城の築城にも深く関与した。豊臣家と徳川家の融和を図り秀頼と家康の会見実現に尽力したが、1611年に50歳で病没した。加藤清正が築いた熊本城は「難攻不落」として名高く、2016年の熊本地震で被害を受けながらも復旧作業が進み、清正の遺産は今も人々に愛されている。