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PERSON
近藤勇
近藤勇
新選組局長
1834-1868 · 享年 34歳
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生涯
武蔵国多摩郡上石原村(東京都調布市)の農家に生まれ、天然理心流の道場・試衛館に入門した。その剣の才能を認められ四代目宗家を継承し、土方歳三・沖田総司・井上源三郎らと腕を磨いた。1863年の浪士組に参加して上洛し、京都守護職・会津藩お預かりの新選組局長となった。池田屋事件(1864年6月)では尊王攘夷派志士の密議を急襲し、数十名を殺傷・捕縛して新選組の名を天下に轟かせた。禁門の変・第二次長州征討など幕末の重要な戦闘にも参加した。1867年に幕府直参・旗本の身分に取り立てられた。鳥羽・伏見の戦い後、甲陽鎮撫隊として甲州勝沼に向かうも新政府軍に敗退した。流山(千葉県)で新政府軍に包囲されて投降し、板橋(東京都)に移送された。1868年4月25日、板橋刑場で斬首された。享年34歳。その生涯は多くの映画・ドラマで描かれている。近藤勇の生涯は多くの映画・ドラマ・小説で描かれており、板橋の処刑場跡や調布の生家跡など縁の地を訪れるファンが絶えない。
人物像
農民出身ながら武士の理想を追い求めた一途な人物。豪胆で義理堅く、部下からの信頼は厚かった。一方で政治的な洞察力に欠け、時代の変化を読み切れなかった面もある。
歴史的意義
新選組局長として幕末京都の治安維持に当たり、「誠」の旗の下に武士道を貫いた。農民から武士へという出自からの立身は、身分制度の揺らぐ幕末を象徴する物語である。
辞世の句
辞 世 の 句
孤軍援絶作俘囚 顧みて君恩を思えば涙更に流る 一片丹心変ぜず 勤王の気節を後昆に垂れん
逸話・エピソード
池田屋事件——新選組が幕府の命運を変えた夜
近藤勇が率いる新選組は1864年7月8日、長州・土佐の尊攘志士たちが密議を行っていた京都・三条の旅館「池田屋」を急襲した。この「池田屋事件」で多数の志士を殺傷・逮捕し、長州藩の勤王激派の計画(京都御所への火放ちと幕府要人の暗殺)を未然に防いだとされる。この功績で新選組の名声は天下に轟き、幕府から多大な恩賞を受けた。しかしこの事件が長州藩を激怒させ、禁門の変・第一次長州征伐へと発展する引き金ともなった。
名言
辞世
「動かでは 叶わぬ春の 夢ならで 我こそ先に ゆかんとぞ思う」
関連する歴史的事件
1863
芹沢鴨暗殺
文久3年(1863年)9月18日夜、新選組の初代筆頭局長・芹沢鴨が京都壬生の八木邸において暗殺された事件。芹沢は水戸藩出身の豪傑で、新選組草創期に近藤勇と並ぶ局長として組織を牽引したが、粗暴な行動と酒乱で度重なる問題を起こしていた。当夜、芹沢は大酒を飲んで就寝したところを、近藤・土方らの刺客に急襲された。愛人・小梅と平山五郎も共に殺害された。この暗殺は会津藩の黙認のもとで実行されたとも伝わる。芹沢の死後、近藤勇が新選組の単独局長として実権を握り、土方歳三との二頭体制で組織の近代化と規律強化を推し進めた。新選組という組織の権力闘争を象徴する事件として幕末史に刻まれている。
近藤勇は芹沢暗殺後、新選組の単独局長となった。この決断により組織の一元化が実現し、以後の新選組の発展の礎が築かれた。
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ゆかりの地 — 5
八木邸
京都府
近藤勇は八木邸の一室に局長として居住し、芹沢鴨と二頭体制で新選組の基礎を築いた。芹沢暗殺後は実質的な単独局長となり、ここを拠点に京都の治安維持に当たった。
池田屋跡
京都府
近藤勇は池田屋事件の総指揮を執り、わずか十数名で30名超の志士を相手に斬り込んだ。この一夜の武功が新選組の名を天下に轟かせ、近藤の局長としての威信を不動のものとした。
不動堂村屯所跡
京都府
不動堂村屯所は近藤勇が京都で最後に指揮を執った拠点である。慶応4年(1868年)1月の鳥羽・伏見の戦いに際し、近藤はここから出陣した。敗戦後に江戸へ戻り、最終的に流山での投降へとつながった。
近藤勇陣屋跡・流山市立博物館
千葉県
流山は近藤勇が最後に指揮を執った地。「大久保大和」と名乗って陣を構えたが、慶応4年4月4日に新政府軍に包囲され、同志を救うために自ら投降した。板橋での斬首まで、近藤は最期まで武士の誇りを貫いた。流山の地が近藤の最後の自由な時間を過ごした場所として、今も深い敬意を持って語り継がれている。
観音寺(綾瀬・稲荷山蓮華院)
東京都
慶応4年(1868年)3月、鳥羽・伏見の戦い(1月)、甲州勝沼の戦い(3月6日)に連敗し、江戸に戻った近藤勇は、新選組を「甲陽鎮撫隊」として再編成して下総流山への転進を企図した。江戸を出発した一行は3月13日に五兵衛新田の金子健十郎宅・観音寺等に到着、ここを屯所として兵を集めた。当初48人だった隊士は3月15日に100人、4月1日に227人まで増えた。しかし4月1日夜、官軍の追撃を受けて流山へ移動、4月3日流山で出頭・投降、板橋で斬首された。観音寺は近藤最後期の20日間の雌伏の地であり、新選組の歴史の最終幕が始まった寺院である。
─ 完 ─
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