生年は不詳。後北条氏の一族・北条氏照に仕えた武将で、和泉守を称した。天正11年(1583年)頃、氏照が下総国小山方面へ勢力を伸ばした際、榎本城(下野国都賀郡、現・栃木市大平町)を任されてその経営にあたった。天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐が始まると、綱秀は氏照の命により本拠のひとつである八王子城の防衛に加わった。同年6月23日、前田利家・上杉景勝・真田昌幸らが率いる1万5千の大軍が八王子城に殺到し、綱秀ら約3千の守備兵は奮戦の末、討死した。主が留守にしていた榎本城はこの隙をついた結城晴朝に攻められて落城し、以後は結城氏の管理下に入った。