松平乗謨(大給恒)
松平乗謨(大給恒)
龍岡城を築いた洋式築城の先駆者・日本赤十字社の母
1839-1910 · 享年 71歳
ま だ 出 会 っ て い ま せ ん
龍岡城跡(五稜郭)を訪れると出会えます
ゆかりの地 1か所
へぇ、と思う三話
龍岡五稜郭——西洋兵学に魅せられた藩主が築いた星形の陣屋
文久3年(1863年)、奥殿藩主・松平乗謨は本領の多くがあった信濃国佐久郡田野口への藩庁移転を幕府に願い出て許可された。西洋の軍学・築城術に強い関心を持っていた乗謨は、新たな陣屋に稜堡式(星形)の洋式城郭を採用することを決断。元治元年(1864年)に着工し、慶応3年(1867年)に完成させた。これが「龍岡城」(通称・龍岡五稜郭)で、同時期に築かれた函館の五稜郭と並び、日本に現存する数少ない西洋式星形要塞となった。石垣ではなく土塁で構築されている点が函館の五稜郭との違いである。
博愛社の設立——「日赤の母」と呼ばれた晩年の功績
明治維新後、松平乗謨は祖先の姓に復して大給恒と改名した。明治10年(1877年)の西南戦争に際し、佐野常民とともに敵味方の区別なく傷病者を救護する「博愛社」の設立を政府に願い出て設立を実現させた。博愛社は明治20年(1887年)に日本赤十字社と改称され、恒はその発展に尽力し続けたことから「日赤の母」と呼ばれる。並行して明治6年(1873年)以降は勲章制度の調査・整備にも携わり、長く賞勲局総裁を務めて日本の栄典制度の基礎を築いた。
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生い立ちから最期まで
天保10年11月13日(1839年12月18日)、三河国奥殿藩7代藩主・松平乗利の長男として生まれた。嘉永5年(1852年)、父の隠居により奥殿藩8代藩主を継いだ。奥殿藩は本領の多くが信濃国佐久郡にあったため、文久3年(1863年)、江戸幕府から佐久郡田野口への藩庁移転の許可を得た。西洋の軍学・築城術に強い関心を持っていた乗謨は、稜堡式(星形)の洋式城郭を採用した田野口陣屋の建設を計画し、元治元年(1864年)に着工、慶応3年(1867年)に完成させた。これが「龍岡城」(龍岡五稜郭)で、北海道の五稜郭(函館)と並び日本に現存する数少ない西洋式星形要塞の一つとなった。幕府では若年寄・老中格・陸軍総裁などを歴任し、フランス式軍制の導入を推進したが、慶応4年(1868年)の戊辰戦争では幕府方を離れて新政府に恭順し、藩兵を北越戦争に派遣した。同年、藩名を龍岡藩と改めた。明治4年(1871年)の廃藩置県で龍岡藩は廃藩となり、まもなく祖先の姓に復して「大給恒(おぎゅうゆずる)」と改名した。維新後は佐野常民とともに博愛社(日本赤十字社の前身、1877年設立)の創設に尽力し、「日赤の母」とも呼ばれる。明治6年(1873年)以降は勲章制度の調査・整備にも携わり、賞勲局総裁を長く務めて日本の栄典制度の基礎を築いた。明治40年(1907年)、その功績により伯爵を授けられた。明治43年(1910年)1月6日、72歳で没した。
人物像
西洋の軍学・技術に強い知的好奇心を持つ開明的な藩主。実戦本位というより研究者肌の探究心から稜堡式城郭を設計したとされ、戊辰戦争では時流を的確に読んで新政府側に転じる柔軟な判断力を見せた。維新後も博愛社・賞勲局の運営に粘り強く取り組み、地道な制度設計者としての手腕を発揮した。
歴史的意義
龍岡城(龍岡五稜郭)は函館五稜郭と並ぶ日本に二例のみの西洋式稜堡城郭として国の史跡に指定され、幕末の洋式築城技術導入を伝える貴重な遺構として今も長野県佐久市に残る。維新後は佐野常民とともに創設した博愛社が日本赤十字社へと発展し、勲章制度の整備者としての功績と合わせ、近代日本の社会制度の基盤づくりに大きな足跡を残した。
家系図
不詳-1852
松平乗利
三河国奥殿藩7代藩主。
本人
松平乗謨(大給恒)
1839-1910
─ 完 ─
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