美濃国の土岐氏一族の出とされるが、前半生は不詳な点が多い。足利義昭に仕えた後、織田信長に取り立てられ急速に出世した。比叡山焼き討ち(1571年)・長篠の戦い(1575年)など信長の主要作戦に参加し、中国地方の毛利攻略戦に先立つ丹波国の平定(1579年)で高く評価された。信長の右腕として重用され、1582年には四国・九州への外征を控えた信長の重要な腹心のひとりとなっていた。しかし同年6月2日、中国地方への出陣を命じられた光秀は突如反旗を翻し、京都の本能寺に宿泊する信長を急襲した。信長は包囲された本能寺で自刃し、天下統一の夢は幻と消えた。光秀は即座に京都・大坂を掌握しようとしたが、わずか13日後に毛利攻めから引き返した羽柴秀吉に山崎の戦いで敗れた。敗走中の光秀は落ち武者狩りに遭い、小栗栖の竹薮で55歳前後で命を落とした。謀反の真の動機については諸説あり、現代まで謎のまま残っている。