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滋賀県大津市坂本本町
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1571年(元亀2年)、織田信長が延暦寺の僧兵勢力を排除するため比叡山全山を焼き討ちにした事件。延暦寺は浅井・朝倉氏に加担したとして信長の怒りを買い、根本中堂をはじめとする堂塔伽藍がことごとく焼き払われ、僧侶・学僧・女性・子供に至るまで多数が殺害されたとされる。この行為は当時の人々に大きな衝撃を与え、信長の苛烈な性格と宗教権力への挑戦を象徴する出来事として歴史に刻まれた。延暦寺はその後、豊臣秀吉の援助により再建された。
比叡山延暦寺は、延暦7年(788年)に最澄が一乗止観院を開いたことに始まり、平安時代を通じて天台宗の総本山として隆盛を極めた。中世には僧兵集団を擁し、朝廷・幕府に対して強大な宗教的・政治的影響力を持つに至った。戦国時代、延暦寺は近江の浅井氏・越前の朝倉氏と結んで織田信長に対抗したとされる。これに怒った信長は元亀2年(1571年)9月、大軍を率いて比叡山に侵攻し、全山を焼き討ちにした。根本中堂をはじめとする堂塔伽藍はことごとく灰燼に帰し、僧侶・学僧・女性・子供に至るまで多数が殺害されたと伝わる。この焼き討ちは当時の人々に深刻な衝撃を与え、信長の宗教権力への苛烈な挑戦を示す象徴的事件として記録され…
元亀2年(1571年)9月12日、信長は2万とも3万ともいわれる兵を率いて比叡山を包囲し焼き討ちを命じた。根本中堂・西塔・横川の全堂宇が炎上し、数千人が命を落としたとも伝わる。「魔王」と称された信長の宗教権力への容赦ない攻撃は、戦国の常識を覆す衝撃的な出来事だった。
羽柴秀吉も焼き討ち部隊に加わったとされるが、後に天下人となった秀吉は延暦寺の再建を支援することで、信長の「仏敵」路線とは一線を画した。焼き討ちの地での態度の変化は、秀吉の巧みな権力経営を象徴する。
焼き討ちの実行部隊を率いたのが明智光秀とも伝わる。光秀はこの命令に躊躇を示したという伝承も残るが、信長の命に従い焼き討ちを実行。この一件が後の本能寺の変の遠因の一つとして語られることもある。
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