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PERSON
織田信長
織田信長
天下布武の革命児
1534-1582 · 享年 48歳
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生涯
1534年、尾張国那古野城で織田信秀の嫡男として生まれる。幼少期は奇抜な行動から「尾張の大うつけ(大馬鹿者)」と呼ばれたが、父の死後に家督を継ぎ、尾張統一を果たした。1560年の桶狭間の戦いで大軍の今川義元を奇襲により討ち取り、全国にその名を轟かせた。1568年には室町幕府再興を名目に足利義昭を奉じて上洛し、京都の実権を握った。1573年には義昭を追放して室町幕府を実質的に終焉させ、「天下布武」の旗のもとに天下統一へひた走った。1575年の長篠の戦いでは鉄砲の組織的運用で武田騎馬隊を壊滅させ、戦術革命を成し遂げた。楽市楽座の導入・関所の廃止による商業の活性化、比叡山延暦寺の焼き討ちや一向一揆の制圧など、既存の宗教・経済権威に果敢に挑んだ。安土城を築き、壮大な天守閣を日本で初めて建造した。天下統一目前の1582年6月2日、家臣・明智光秀の謀反(本能寺の変)により京都本能寺で自害した。享年49歳。
人物像
常識にとらわれない革新的な発想と実行力を持つ。残酷な面も持ち合わせ敵には容赦しなかったが、能力主義を重んじ身分に関わらず有能な者を登用した。西洋文化や鉄砲など新技術への好奇心が強く、変化を恐れない先進性が戦国の世を席巻した。
歴史的意義
天下統一の道筋をつけ、秀吉・家康による統一の基盤を作った。鉄砲戦術の革新は戦国時代の戦い方を根本から変え、楽市楽座は近世の商業経済の礎となった。「本能寺の変」はその劇的な最期として日本史に深く刻まれ、現在も多くの文学・映像作品の題材となっている。
辞世の句
辞 世 の 句
人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり。一度生を得て滅せぬ者のあるべきか
逸話・エピソード
桶狭間の奇襲
「敦盛」を舞い、わずか3千の兵で今川義元2万5千の大軍を奇襲。義元を討ち取り、一躍天下に名を轟かせた。
うつけ者の青春
若い頃は奇行が目立ち「尾張のうつけ者」と蔑まれた。父の葬儀で位牌に焼香を投げつけた逸話は有名。しかし家臣・平手政秀が諌死すると、信長は態度を改めたとされる。
楽市楽座
既存の座(ギルド)の特権を廃止し、自由な商業活動を認める「楽市楽座」を実施。近代的な自由経済の先駆けとして評価され、城下町の繁栄をもたらした。
安土城の天主閣
日本初の本格的天主閣を持つ安土城を築城。金箔を貼った豪華絢爛な天主は「天下布武」の象徴であり、後の城郭建築の原型となった。
名言
辞世
「人間五十年、下天のうちをくらぶれば、夢幻の如くなり」
「是非に及ばず」
「鳴かぬなら 殺してしまえ ホトトギス」
織田信長 年表
1534
織田信長、尾張に生まれる
1560
桶狭間の戦いで今川義元を討つ
1567
美濃を征服。「天下布武」の印を使用
1568
足利義昭を奉じて上洛
1571
比叡山延暦寺を焼き討ち
1573
足利義昭を追放。室町幕府滅亡
1575
長篠の戦いで武田勝頼を破る
1576
安土城の築城開始
1582
本能寺の変。明智光秀の謀反により自害(49歳)
関連する歴史的事件
1543
鉄砲伝来
天文12年(1543年)、ポルトガル人を乗せた中国船が大隅国種子島に漂着し、領主種子島時堯が2挺の火縄銃を購入した(『鉄炮記』)。時堯は刀鍛冶の八板金兵衛に複製を命じ、国産化に成功。堺・国友・根来など各地で大量生産が始まり、長篠の戦い(1575年)では織田信長が三千挺を用いて武田騎馬軍団を粉砕。鉄砲は日本の戦術・築城・兵農関係を根本から変え、戦国時代の戦い方を一変させた世紀の技術革新である。
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ゆかりの地 — 45
延暦寺
滋賀県
元亀2年(1571年)9月、信長は浅井・朝倉氏を支援した延暦寺に報復。比叡山全山を包囲し根本中堂をはじめ堂塔を焼き払い、僧侶・学僧・俗人を問わず多数を殺害した。この焼き討ちは宗教権力への挑戦として時代を震撼させ、信長の「仏敵」としての評価を固めた。
西本願寺
京都府
本願寺11世・顕如は信長に大坂石山(現在の大阪城付近)の退去を迫られ、元亀元年(1570年)から天正8年(1580年)まで10年間にわたる「石山合戦」で激しく抵抗した。敗北後、顕如は信長の許しを得て京都に移座し、現在の西本願寺の地を得た。
大徳寺
京都府
本能寺の変(1582年)で横死した信長の菩提を弔うため、秀吉が大徳寺で盛大な葬儀を催した。境内の総見院は信長の木像と墓所を有し、信長の菩提寺として今も信長の命日には法要が行われる。
二条城
京都府
天正元年(1573年)、信長は将軍・足利義昭を京都から追放したが、それ以前に義昭のために二条城(旧二条城)を築いていた。この旧二条城こそが信長の京都支配の拠点であり、現在の二条城とは別の場所に存在した。
熱田神宮
愛知県
永禄3年(1560年)、桶狭間の戦いの前夜に信長は熱田神宮に戦勝祈願を行った。少数の兵で今川義元の大軍に勝利した後、感謝の印として社殿の周囲に築地塀(信長塀)を奉納した。この塀は今も境内に現存し、信長の信仰の証として伝わる。
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