character/[id]

PERSON
尾形光琳
尾形光琳
琳派の大成者・「燕子花図屏風」「紅白梅図屏風」
1658-1716 · 享年 58歳
+ 推しに追加
家系図を見る
生涯
1658年(万治元年)、京都の高級呉服商「雁金屋」の次男として生まれた。父・尾形宗謙は本阿弥光悦の縁戚にあたり、光琳は幼少期から絵画・能・書・茶の湯など一流の文化環境に育った。弟・尾形乾山とともに家業を継いだが、元来の派手好みと遊蕩により程なく莫大な遺産を使い果たす。30代末に絵画の道に専念し始め、狩野派・土佐派を学びつつ、曽祖父母の時代に光悦・宗達が確立した装飾美術様式を研究、その独創的な発展形として「光琳様式」を確立した。1701年43歳で法橋に叙せられ、1704年頃江戸に下り大名や豪商の後援を受けた。5年ほどの江戸滞在の後、52歳頃京都に戻り、晩年の京都期に「紅白梅図屏風」(国宝・MOA美術館蔵)や「八橋蒔絵螺鈿硯箱」(国宝・東京国立博物館蔵)など金字塔的傑作を制作。1716年6月、京都にて59歳で没。
人物像
京都の豪商の御曹司として文化的教養に恵まれたが、派手好みで遊興に耽り遺産を使い果たすほどの自由奔放な性格。一方で芸術的直観は鋭く、絵画・蒔絵・染織・焼物(弟・乾山との共作)など幅広いジャンルに優れた感性を発揮した。
歴史的意義
光琳は本阿弥光悦・俵屋宗達・尾形光琳・酒井抱一と続く「琳派」の大成者。琳派は「光琳派」と呼ばれ、抱一・鈴木其一らに引き継がれ幕末まで続いた。その装飾美術様式はアール・ヌーヴォーにも影響を与えた。代表作「燕子花図屏風」(根津美術館)「紅白梅図屏風」(MOA美術館)「風神雷神図屏風」(模写、東京国立博物館)はいずれも国宝または重要文化財。
逸話・エピソード
「燕子花図屏風」——『伊勢物語』第九段を描く
1701〜1704年頃、40代半ばの光琳は『伊勢物語』第九段「東下り」の三河・八橋の場面を六曲一双の屏風に描いた。主人公・在原業平が杜若の咲く沢辺で和歌を詠んだ名場面である。しかし光琳は橋も人物も一切描かず、ただ群青と緑青の燕子花のみを金地に配列。リズミカルな花の反復が詩の余韻を呼び起こす。国宝・根津美術館蔵、毎年4〜5月に公開。
「紅白梅図屏風」——晩年の到達点
1711〜1716年の最晩年、光琳は生涯の集大成として「紅白梅図屏風」(二曲一双)を制作した。中央に流れる水の文様は、黒い地に銀の線で波紋を描いた極めて装飾的なもので、左右に紅梅と白梅を配置。抽象と具象、大胆と繊細、対称と非対称が高度に融合した構成は「日本の装飾美術の頂点」と称される。1954年に国宝指定、MOA美術館(熱海)所蔵、毎年2月に公開。
ゆかりの地 — 1
冬木弁天堂
東京都
琳派の巨匠・尾形光琳(1658-1716)は京都出身ながら元禄年間に江戸に下向し、深川の豪商・冬木家に寄寓した。光琳は冬木家の妻のために白綸子の小袖に秋草模様を描き、この「冬木小袖」は現在東京国立博物館に所蔵される国宝級の文化財として知られる。光琳は冬木家の庇護のもとで多くの作品を制作し、琳派芸術を江戸に広めた。冬木弁天堂は光琳が日々参拝した弁財天であり、芸術の神・弁財天への祈りが光琳の創作を支えたとも伝えられる。
─ 完 ─
📱
アプリで巡礼を楽しむ
App Store からダウンロード
T · O · K · U