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PERSON
大石内蔵助
大石内蔵助
忠臣蔵の首領
1659-1703 · 享年 44歳
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生涯
播磨国赤穂藩の筆頭家老として主君・浅野内匠頭を支えた。1701年、浅野が江戸城松之廊下で高家肝煎の吉良上野介に刃傷に及んだ。幕府は浅野に即日切腹を命じ、赤穂藩はお家断絶となった。一方的な幕府の裁断に憤った大石は仇討ちを誓い、京都・山科や大坂・一力茶屋での放蕩生活を偽装して吉良側の油断を誘い続けた。「昼行灯」と嘲られるほどの徹底した演技を約1年半続け、同志の離脱を防ぎながら討ち入りの準備を進めた。1702年12月14日深夜、赤穂浪士47名を率いて本所・吉良邸に討ち入り本懐を遂げた。翌年、幕府の裁きにより47名全員が切腹を命じられ、主君と同じ高輪の泉岳寺に葬られた。この行動は武士道の精華として世の絶賛を浴び、「忠臣蔵」として歌舞伎・映画・テレビドラマで無数に描かれ続けている。毎年12月14日には泉岳寺で義士祭が営まれる。泉岳寺に葬られた大石と四十七士の墓は現在も多くの参拝者が訪れ、主君への忠義を貫いた赤穂義士の精神は今も人々の心を打つ。
人物像
忍耐強く深慮遠謀の人物。討ち入りまでの約2年間、遊郭通いで敵を欺く演技を続けた胆力は驚嘆に値する。統率力に優れ、47名の同志をまとめ上げた。
歴史的意義
赤穂事件は「忠臣蔵」として歌舞伎・浄瑠璃・映画・ドラマで無数に描かれ、日本人の忠義観を象徴する物語となった。毎年12月14日には泉岳寺で義士祭が営まれている。
辞世の句
辞 世 の 句
あら楽し 思ひは晴るる 身は捨つる 浮世の月に かかる雲なし
逸話・エピソード
赤穂浪士の吉良邸討入——「忠臣蔵」として語り継がれる日本三大仇討ち
1701年(元禄14年)3月、浅野内匠頭が江戸城松之廊下で吉良上野介に斬りつけた(松之廊下の刃傷)。浅野は即日切腹を命じられ赤穂藩は断絶した。家老・大石内蔵助は約47名の旧藩士を率いて雌伏の時を過ごし、翌1702年12月に吉良邸に討入り吉良の首を取った。幕府は浪士47名全員に切腹を命じた。この事件は「忠臣蔵」として浄瑠璃・歌舞伎の大ヒット作となり、今も毎年12月14日の「赤穂義士祭」には多くの人が泉岳寺を訪れる。
関連する歴史的事件
1703
赤穂事件(忠臣蔵)
元禄15年(1703年)12月14日、赤穂浪士47人が本所松坂町の吉良上野介邸に討ち入り、主君・浅野内匠頭の仇を報じた。浪士たちは吉良の首を掲げて泉岳寺の主君の墓前に報告。幕府は義挙と認めつつも切腹を命じ、47士は泉岳寺に葬られた。日本人の忠義観を象徴する物語として今も語り継がれる。
ゆかりの地 — 2
泉岳寺
東京都
元禄15年12月14日、大石内蔵助は吉良邸討ち入りの後、四十七士を率いて約10kmを行進し、主君・浅野内匠頭の墓前に吉良の首級を供えた。その後、四十七士は幕命により切腹。遺体はこの泉岳寺に葬られ、主君の傍らに永遠に眠る。
吉良上野介屋敷跡(本所松坂町公園)
東京都
元禄15年12月14日未明、大石内蔵助率いる赤穂浪士四十七士がこの吉良邸に討ち入り、主君・浅野内匠頭の仇を見事に討ち果たした。大石は討ち入り後、泉岳寺に向かい主君の墓前に首級を供えた。
─ 完 ─
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