character/[id]

PERSON
最澄
最澄
天台宗開祖・伝教大師
767-822 · 享年 55歳
+ 推しに追加
家系図を見る
生涯
近江国滋賀郡(現在の滋賀県大津市)の渡来系氏族の家に生まれた。7歳頃から神童と呼ばれ、12歳で比叡山に登り行賀のもとで修行を始めた。785年に東大寺で具足戒を受けた後、再び比叡山に籠もり独学で天台止観の修行を重ねた。788年、比叡山の山頂付近に一乗止観院(後の根本中堂)を建立し、薬師如来を安置して「魔を払い国を守る」道場とした。804年、31歳のとき空海と同じ遣唐使船で唐に渡り、天台山の道邃・行満から天台教学の奥義を学んで翌年帰国した。延暦寺を根本道場として天台宗を日本に確立し、806年に天台法華宗の独立を朝廷に認められた。「一隅を照らす、これ即ち国宝なり」という言葉を遺し、万人の成仏を説く法華一乗の平等思想を広めた。空海とは密教修法を借り受けるなど当初交流があったが、密教の奥義伝授をめぐる書簡問題で関係が悪化した。比叡山での長年の宿願であった大乗戒壇の設立を、822年の入滅後わずか7日にして朝廷が許可した。享年56歳。
人物像
真摯で求道的な性格。空海との確執にも見られるように信念を曲げない一面を持つ。「すべての人が成仏できる」という法華一乗思想を説き、平等主義的な教えを広めた。
歴史的意義
比叡山延暦寺は日本仏教の母山と呼ばれ、法然・親鸞・道元・日蓮など後の宗派の祖師たちを輩出した。日本仏教の多様性の源流を作った功績は極めて大きい。
逸話・エピソード
天台宗の開宗——最澄と比叡山延暦寺の日本仏教への影響
最澄は804年に空海とともに唐(中国)に渡り、天台宗の教えを学んで帰国した。比叡山に延暦寺を開き、天台宗を日本仏教の主流に育てた。後の法然・道元・親鸞・日蓮など鎌倉仏教の開祖たちはすべて比叡山で修行しており、最澄の天台宗は「鎌倉新仏教の母胎」とも評される。「忘己利他」(自分を忘れて他者を利することが慈悲の根本)という言葉を残した。
名言
「一隅を照らす、これ即ち国宝なり」
「照千一隅、此則国宝也」
関連する歴史的事件
850
弘仁・貞観文化
9世紀、嵯峨天皇の弘仁年間(810-824)から清和・陽成天皇の貞観年間(859-877)を中心とする平安初期の文化。最澄が開いた天台宗(比叡山延暦寺)、空海が開いた真言宗(高野山金剛峯寺・東寺)による密教が中心となり、神秘的で力強い造形を生んだ。室生寺金堂釈迦如来像、元興寺薬師如来像、観心寺如意輪観音像、神護寺薬師如来像などの一木造り・翻波式衣文の仏像が代表。絵画では両界曼荼羅、建築では山岳寺院(室生寺五重塔)。漢詩文が隆盛し『凌雲集』『文華秀麗集』『経国集』の勅撰三集が編まれた。空海の三筆(嵯峨天皇・橘逸勢と並ぶ)も著名。
ゆかりの地 — 3
延暦寺
滋賀県
延暦7年(788年)、最澄は桓武天皇の平安遷都に合わせて比叡山に一乗止観院を建立した。桓武天皇は最澄を帰依し、入唐留学を勅許。帰国した最澄は天台宗を開き、比叡山を日本仏教の母山とした。法然・親鸞・栄西・道元・日蓮ら後の宗祖がすべてこの山から輩出された。
櫟野寺
滋賀県
伝教大師最澄は延暦11年(792年)、比叡山延暦寺を開創する前年に修行のため甲賀の山中に分け入り、櫟(いちい)の霊木から自ら十一面観音を刻んで安置した。これが櫟野寺の開創と伝わる。最澄が天台宗を開く直前のゆかりの寺として、当寺は天台宗の重要な聖地となった。
善想寺
京都府
善想寺の副本尊・地蔵菩薩は、伝教大師最澄が約一二〇〇年前に自ら刻んだ一代の念持仏(生涯手元に置いた守り本尊)と伝えられる。最澄の没後は近江の坂本村に安置されていたが、天正15年(1587年)、善想寺初代住職によってこの地に迎えられた。「泥足地蔵」「汗出し地蔵」「身代り地蔵」の三つの異名を持ち、農夫の田植えを助けたとの伝説や難産の母子を救ったとの奇跡譚が語り継がれてきた。天台宗の開祖が生涯の守り本尊とした地蔵が浄土宗の寺院に収まるという歴史の巡り合わせが、この小さな寺の奥深さを物語っている。
─ 完 ─
📱
アプリで巡礼を楽しむ
App Store からダウンロード
T · O · K · U