正徳4年(1714年)生まれ。享保17年(1732年)、養嗣子として家督を継ぎ出羽松山藩3代藩主となる。松山藩は正保4年(1647年)に庄内藩主・酒井忠勝の三男忠恒が2万石を分知されて立藩し、当初は中山村に堀をめぐらせた陣屋を構えるにとどまっていた。宝暦10年(1760年)、忠休は幕府の若年寄に任じられ、庄内藩酒井家として初めて幕閣入りを果たす。安永8年(1779年)、若年寄在任の功により上野国内で5000石を加増され、松山藩は2万石から2万5000石に拡大、これにより城主格を得た。天明元年(1781年)、庄内藩の軍学者・長坂十太夫の設計により陣屋の城郭化に着手し、天明7年(1787年)までに本丸を除く二の丸・三の丸の土塁・堀・塀を完成させ、松山城として整備した。