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PERSON
柴田勝家
柴田勝家
瓶割柴田・織田筆頭家老
1522-1583 · 享年 61歳
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生涯
1522年頃、尾張の武士の家に生まれた。織田信長の父・信秀の頃から仕え、当初は信長に反抗したが後に帰服し、信長の最も信頼される筆頭家老となった。「瓶割柴田」の異名は、越前撤退戦の際に水瓶を割って兵士たちに「もう退けない」と覚悟させた逸話に由来する。越前北庄(現・福井市)を拠点とし、主に北陸方面の軍事を担当した。上杉謙信・景勝との戦いでも活躍し、柴田軍団は織田家中で最大の軍事力を誇った。1582年の本能寺の変後、羽柴秀吉と天下を争い、1583年の賤ヶ岳の戦いで敗北した。北庄城に籠った勝家は火を放ち、正室・お市の方と共に自刃した。享年61歳。「男の見様こそ大事」という辞世の言葉と共に、武士道の鑑として後世に語り継がれた。
人物像
「瓶割柴田」の逸話が示すように、勇猛果敢で部下への統率力に優れた武将。信長への忠義は生涯変わらず、最後まで敵に降伏しなかった不屈の精神は武士道の鑑とされた。
歴史的意義
柴田勝家・お市の方が自刃した北庄城跡は現在の福井市中心部にあり、柴田神社として整備されている。賤ヶ岳の戦いは豊臣政権成立の決定打となった歴史的合戦として知られる。
辞世の句
辞 世 の 句
夏の夜の 夢路はかなき 跡の名を 雲井にあげよ 山ほととぎす
逸話・エピソード
賤ヶ岳の敗戦と北ノ庄の炎——柴田勝家と市の最期
1583年の賤ヶ岳の戦いで柴田勝家は羽柴秀吉に敗れ、北ノ庄城(現福井市)に退却した。秀吉の軍勢が迫る中、勝家は妻・市(織田信長の妹)と最期の宴を開き、「これまでのこと、口惜しさも今は無し」と詠んで腹を切った。市は三人の娘(後の淀殿・初・江)を城から出した後、勝家とともに命を絶った。北ノ庄城は炎上し、柴田勝家・市とともに800余名の城兵が殉死した。この壮絶な最期は後世の浄瑠璃・歌舞伎で繰り返し描かれ、戦国の武将と貴婦人の悲劇として語り継がれている。
名言
辞世
「夏の夜の 夢路はかなき 後の名を 雲井にあげよ 山ほととぎす」
関連する歴史的事件
1488
加賀一向一揆
1488年(長享2年)、加賀国の守護・富樫政親が蓮如率いる浄土真宗の門徒たちに討たれた事件と、その後約100年にわたり加賀に成立した「百姓の持ちたる国」の始まりを指す。発端は、加賀国内での本願寺門徒の勢力拡大を警戒した富樫政親が門徒を弾圧したこと。これに対し蓮如の息子たちや本願寺派の坊主が門徒を組織し、20万ともいわれる一揆勢が高尾城に籠もる政親を攻めて自害に追い込んだ。以後、加賀は守護大名ではなく本願寺門徒の自治組織が統治する国となり、日本史上唯一農民(と呼ぶべき門徒層)による自治国家が約1世紀にわたり成立するという稀有な事例となった。1580年、織田勢の柴田勝家・佐久間盛政らに制圧されるまで「百姓の持ちたる国」は続いた。
ゆかりの地 — 2
柴田神社
福井県
柴田勝家はこの北ノ庄城址に祀られた織田家随一の猛将。天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いで羽柴秀吉に敗れ、妻・お市の方とともに天守に火を放ち自害した。「かかれ柴田」と称された豪勇の武将として越前の民に今も慕われ、毎年秋にはお市まつりで讃えられる。
北ノ庄城跡
福井県
柴田勝家は天正3年(1575年)頃に北ノ庄城を築城し、越前国主として11年間統治した。信長の死後は羽柴秀吉と天下をめぐって対立し、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いで敗北。妻・お市の方と三姉妹を逃がそうとしたが果たせず、お市とともに火中に散った。当時最大級の九層天守が燃え落ちたこの地が勝家の終焉の場所である。
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