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PERSON
聖徳太子
聖徳太子
十七条憲法の聖人
574-622 · 享年 48歳
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生涯
574年、用明天皇の第二皇子として生まれ、本名は厩戸皇子(うまやどのみこ)。母が宮殿の馬屋(厩)の前で産んだという伝説からこの名がある。幼少より聡明で、仏教・儒教の典籍を深く学んだと伝わる。587年の蘇我・物部の争いでは蘇我馬子を支持し、仏教派の勝利に貢献した。593年に推古天皇が即位すると太子(皇太子)・摂政に任じられ、蘇我馬子と協力しながら政治改革を主導した。603年に冠位十二階を制定して、家柄ではなく能力・功績による人材登用制度を整えた。604年には十七条憲法を制定し、仏教・儒教の思想を基盤とした国家統治の規範を示した。「和を以て貴しとなす」の第一条は今日も広く知られる。607年には小野妹子を遣隋使として隋に派遣し、「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す」で始まる国書で対等外交を試みた。法隆寺・四天王寺・中宮寺など多くの寺院を建立し、仏教を国家の精神的支柱として定着させた。622年、斑鳩宮で49歳にて薨去した。
人物像
深い仏教的慈悲心と儒教的徳治の思想を持つ理想主義的な政治家。「和を以て貴しとなす」という言葉に代表されるように、調和と協調を重んじた。学問への強い関心を持ち、三経義疏と呼ばれる仏典の注釈書を著したともいわれる。聡明さから「十人の話を同時に聞き分けた」という伝説も生まれた。
歴史的意義
十七条憲法は日本最古の成文法規範とされ、「和」の精神は日本文化の根本理念として現在に至るまで生き続けている。冠位十二階は官僚制度の礎となり、律令制度への道を開いた。法隆寺は世界最古の木造建築として世界遺産に登録され、日本の仏教文化を世界に伝える。旧一万円札の肖像にも採用されるなど、聖徳太子は日本人にとって最も親しまれた歴史的人物の一人である。
逸話・エピソード
十七条憲法と冠位十二階——聖徳太子の国家建設
聖徳太子は604年に「十七条憲法」を制定し、仏教・儒教の精神に基づく日本最初の成文法を作り上げた。同年に冠位十二階制を設けて氏族制によらない人材登用の仕組みを整え、604年の遣隋使派遣では煬帝に「日出処天子」の国書を送って対等外交を実現した。推古天皇の摂政として日本の律令国家体制の基礎を作った。
名言
「以和為貴、無忤為宗」
「為政者たる者、まず民の心を知るべし」
関連する歴史的事件
538
仏教公伝
宣化3年(538年、『日本書紀』では552年とも)、百済の聖明王が欽明天皇に仏像・経典・僧侶を献じ、日本に仏教が公式に伝来した。受容をめぐって崇仏派の蘇我氏と排仏派の物部氏が激しく対立し、のちの丁未の乱(587年)に発展する。仏教は以後の日本文化・政治・芸術の根幹を形づくり、飛鳥文化・奈良仏教・平安仏教へと連なる千数百年の宗教史の起点となった。
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ゆかりの地 — 3
法隆寺
奈良県
推古天皇15年(607年)、聖徳太子が用明天皇の遺願を継いで法隆寺を創建した。太子は十七条憲法・冠位十二階を制定し仏教を国の礎と位置づけた。「世間虚仮、唯仏是真」を信念とした太子の理念が凝縮されたのがこの法隆寺であり、現存する世界最古の木造建築として飛鳥文化の精髄を今に伝える。
百済寺
滋賀県
聖徳太子は推古天皇14年(606年)、朝鮮半島の百済国から渡来した僧の活動拠点として百済寺を建立した。寺は百済国の龍雲寺を模して造られ、寺名もこの故事に由来する。太子の仏教興隆策と日本仏教伝来期の国際交流を象徴する古刹として、当寺は古代日本の宗教史に重要な位置を占める。
堂島薬師堂
大阪府
推古天皇元年(593年)、聖徳太子が四天王寺を造営するため諸国から資材を集めた折、一艘の船が中津川(後の堂島川)河口で難破し、この中州に漂着したと伝わる。太子は漂着した資材と船材を用いて小さな堂宇を建て、薬師如来を祀った。これが堂島薬師堂の起源であり、「堂の建つ島」ゆえに当地を「堂島」と呼ぶようになった地名由来譚となっている。四天王寺の創建伝承と直結する堂島薬師堂の起源は、古代難波の港湾都市としての性格を色濃く残す。江戸時代には堂島の地が米相場の聖地として世界史に名を刻むことになるが、その原点にある聖徳太子の一堂は、日本仏教黎明期の信仰の痕跡として今も堂島の中心に残り続けている。
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