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PERSON
足利尊氏
足利尊氏
室町幕府初代将軍
1305-1358 · 享年 53歳
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生涯
足利貞氏の次男として下野国に生まれ、鎌倉幕府の有力御家人として育った。後醍醐天皇の倒幕運動(元弘の変、1331年)に当初は幕府側として対応したが、1333年に六波羅探題を攻略して幕府打倒に転じ、建武の新政樹立に貢献した。しかし天皇中心の貴族的政治に不満を持つ武士たちの支持を集め、1335年の中先代の乱を機に後醍醐天皇と決裂。一時は九州に落ち延びたが、多々良浜の戦いで再起し京都を奪回した。1336年に建武式目を制定して武家政権の基本方針を示し、光明天皇を擁立して北朝を開いた。1338年に征夷大将軍に任じられ室町幕府を開いたが、弟・直義との対立(観応の擾乱)や南北朝の分裂など政局は複雑を極めた。1358年に54歳で没するまで南北朝動乱の中心人物として活動し続けた。その統治は完全には安定しなかったが、室町時代約240年の幕府体制の礎を築いた。
人物像
豪快な武人気質と繊細な感受性を兼ね備えた複雑な人物。戦場では恐れを知らぬ勇猛さを発揮する一方、時として深い憂鬱に沈む面もあったと伝わる。弟・直義への複雑な愛憎、後醍醐天皇への複雑な感情など、人間関係における矛盾と葛藤が多く見られた。カリスマ的な求心力で多くの武士を惹きつけたが、政治的一貫性には欠ける面があった。
歴史的意義
室町幕府の創設者として約240年にわたる武家政権の礎を築いた。南北朝の分裂という時代の混乱を乗り越えて幕府体制を確立した政治的業績は大きい。一方で、後醍醐天皇への「逆賊」という評価が明治維新まで続き、長く歴史的評価が低かった。現代では南北朝時代の複雑な政治状況の中で幕府を安定させた統治者として再評価されている。東京・鎌倉など各地に尊氏ゆかりの寺社が残る。
逸話・エピソード
建武の新政からの離反
後醍醐天皇の建武の新政に従い鎌倉幕府を滅ぼした功労者だったが、恩賞の不公平に武士たちの不満が高まると、天皇に反旗を翻して室町幕府を開いた。裏切り者か救世主か、評価が分かれる人物。
弟・直義との骨肉の争い
政治を任せていた弟・足利直義と対立が深まり、観応の擾乱で兄弟が激突。最終的に直義は毒殺されたとされる。天下を取った代償に実の弟を失った。
関連する歴史的事件
1335
建武の乱(中先代の乱)
1335年7月、北条高時の遺児・北条時行が信濃で挙兵し、鎌倉を一時奪取した反乱。諏訪頼重らに擁立された時行は反足利・反建武の武士を集め、わずか一ヶ月足らずで鎌倉に攻め入った。足利直義は鎌倉を放棄して逃走し、護良親王を殺害して東へ退いた。しかし足利尊氏が後醍醐天皇の許可を待たずに独断で鎌倉へ進軍し、時行軍を撃破して鎌倉を奪還した。この乱を機に尊氏は建武政権から離反し、南北朝の動乱へと発展した。鎌倉幕府残党の最後の抵抗と、足利幕府成立の引き金となった歴史的事件。
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ゆかりの地 — 1
菅原神社(本町田)
東京都
建武2年(1335年)7月の井出の沢の戦いで弟・直義が北条時行に敗れ鎌倉が陥落すると、足利尊氏は後醍醐天皇の許可を待たず京都を発ち、東海道を駆け下って時行軍を撃破、8月に鎌倉を奪還した。この戦いの勝利を契機に尊氏は後醍醐天皇と決別し、翌建武3年(1336年)には光明天皇を擁立して室町幕府を開いた。井出の沢の敗戦は直義を鎌倉から一時退かせた遠因として、尊氏の後醍醐天皇離反と南北朝動乱の開幕を導いた決定的な一戦であった。
─ 完 ─
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