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PERSON
北条時宗
北条時宗
八代執権・元寇
1251-1284 · 享年 33歳
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生涯
北条時頼の次男として1251年に生まれた。1268年(18歳)に八代執権に就任した直後から、モンゴル帝国(元)の使者が次々と来日し服属を要求してくるという未曾有の国難に直面した。時宗はその要求を毅然として退け続け、元の使節を処刑するという強硬策も辞さなかった。1274年の文永の役では元・高麗軍が北九州に上陸したが、暴風雨もあり撤退させることに成功した。その後も防塁(博多湾岸の石造防壁)の築造を命じて防衛体制を整備した。1281年の弘安の役では140,000人以上ともいわれる史上最大級の侵攻軍を迎え撃ち、御家人の奮戦と暴風雨(神風)の助けもあって再び撃退することに成功した。二度の勝利は武家政権の対外的威信を大きく高めた。禅宗への帰依も深く、宋から来日した無学祖元(仏光国師)を師と仰ぎ、1282年に円覚寺を創建した。「乾坤砕くべし(天地が砕けようとも)」という禅の公案への答えに纏わる逸話が伝わる。1284年、34歳の若さで病没した。
人物像
若くして重責を担い、国難に正面から立ち向かった。禅の修行から培われた精神的強さを持ち、「乾坤砕くべし」の禅問答の逸話が伝わる。
歴史的意義
二度の元寇を撃退し日本を守った英雄として後世に称えられる。円覚寺の創建は神奈川の禅宗文化の中心となり、現在も重要な文化財が残る。
辞世の句
辞 世 の 句
莫煩悩
逸話・エピソード
蒙古の国書を無視
クビライ・ハンの降伏勧告の国書を二度にわたり無視し、使者を斬首。18歳で世界帝国に立ち向かった胆力。
北条時宗 年表
1251
北条時宗、鎌倉に生まれる
1268
18歳で第八代執権に就任。元からの服属要求を拒否
1271
元の使者を再び拒否。国防体制を強化
1274
文永の役。モンゴル軍を撃退
1275
元の使者を鎌倉で斬首
1279
無学祖元を鎌倉に招く
1281
弘安の役。暴風雨(神風)によりモンゴル軍壊滅
1282
円覚寺を創建
1284
北条時宗、34歳で病没
関連する歴史的事件
1274
文永の役
1274年10月、元(モンゴル帝国)・高麗連合軍約三万の軍勢が九州北部に来襲した第一次元寇。対馬・壱岐を攻略した後、博多湾に上陸した元軍は集団戦法と火薬兵器(てつはう)を駆使して日本軍を苦しめた。日本軍は個人戦に慣れており、元軍の集団戦術に苦戦したが、夜になると元軍は船に引き揚げた。同夜、暴風雨(神風)が元軍の艦隊を直撃して大損害を与えたとされ、元軍は撤退した。執権・北条時宗の指揮のもと、鎌倉幕府は翌年から防衛体制の強化(石塁の構築など)を進めた。日本史上最大の外国軍侵攻事件として歴史に刻まれる。
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ゆかりの地 — 4
鶴岡八幡宮
神奈川県
八代執権・時宗は元寇(蒙古襲来)の国難に際し、鶴岡八幡宮で異国降伏の祈祷を行った。二度の蒙古襲来を退けた後、円覚寺を建立して戦没者を弔った。
円覚寺
神奈川県
弘安5年(1282年)、八代執権・時宗は元寇(蒙古襲来)の戦没者を敵味方の区別なく弔うため、南宋から招いた無学祖元を開山として円覚寺を創建した。時宗自身も禅の修行に励み、34歳の若さで没した後はこの寺に葬られた。
建長寺
神奈川県
八代執権・時宗は父・時頼の創建した建長寺を篤く護持し、蘭渓道隆の法嗣をはじめとする禅僧を手厚く遇した。元寇の国難に際して禅の精神で心を整え、国家の危機を乗り越えた。
笠䅣稲荷神社
神奈川県
文永11年(1274年)、蒙古襲来に際し鎌倉幕府第8代執権・北条時宗が笠のぎ稲荷神社に菊一の銘刀と神鈴を奉納し、国家安泰・異国降伏を祈願したと伝わる。時宗は弘安4年(1281年)の弘安の役でも蒙古の再襲来を退けた「神国日本」を体現した執権であり、その祈願先の一つがこの横浜の稲荷社であったことは、鎌倉と神奈川宿の信仰的つながりを物語る。
─ 完 ─
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