北条時頼の次男として1251年に生まれた。1268年(18歳)に八代執権に就任した直後から、モンゴル帝国(元)の使者が次々と来日し服属を要求してくるという未曾有の国難に直面した。時宗はその要求を毅然として退け続け、元の使節を処刑するという強硬策も辞さなかった。1274年の文永の役では元・高麗軍が北九州に上陸したが、暴風雨もあり撤退させることに成功した。その後も防塁(博多湾岸の石造防壁)の築造を命じて防衛体制を整備した。1281年の弘安の役では140,000人以上ともいわれる史上最大級の侵攻軍を迎え撃ち、御家人の奮戦と暴風雨(神風)の助けもあって再び撃退することに成功した。二度の勝利は武家政権の対外的威信を大きく高めた。禅宗への帰依も深く、宋から来日した無学祖元(仏光国師)を師と仰ぎ、1282年に円覚寺を創建した。「乾坤砕くべし(天地が砕けようとも)」という禅の公案への答えに纏わる逸話が伝わる。1284年、34歳の若さで病没した。