1568年、秀吉の姉・日秀尼の子として生まれた。幼名は孫七郎。秀吉の養子となり、1584年の小牧・長久手の戦いでは初陣を飾るも織田信雄・徳川家康連合軍に大敗を喫した。しかしその後は四国征伐・九州征伐・小田原征伐でそれぞれ功績を挙げた。1591年に秀吉の後継者として関白職を引き継いだ。連歌・茶の湯を愛する文化人でもあり、近江八幡の城下町整備など善政を敷いたとされる。しかし1593年に秀吉の実子・秀頼が誕生したことで秀吉の後継者としての地位が揺らぎ始めた。1595年に謀反の嫌疑をかけられて高野山に蟄居を命じられ、そのまま切腹を強制された。正室・側室・子ども含む一族約30名が三条河原で処刑され「殺生関白」の汚名を着せられた。しかし近年の研究では、秀次に対する嫌疑の多くは虚偽であり、秀吉の猜疑心が生んだ悲劇として再評価が進んでいる。享年28歳。