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PERSON
塚原卜伝
塚原卜伝
剣聖
1489-1571 · 享年 82歳
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生涯
1489年、常陸国鹿島(現・茨城県鹿嶋市)の鹿島神宮の神官・卜部覚賢の子として生まれ、のちに塚原城主・塚原安幹の養子となった。幼少より鹿島の太刀を学び、17歳で廻国修行の旅に出た。生涯を通じて真剣勝負19回、合戦37回に参加し、一度も負傷しなかったと伝えられる。200回以上の試合を行い、斬った敵は212人とされる。鹿島神宮に伝わる古流剣術を体系化し、「鹿島新當流(かしましんとうりゅう)」を創始した。これは日本の剣術諸流派の源流の一つとされ、後世の剣術に多大な影響を与えた。卜伝の剣の特徴は「一つの太刀」と呼ばれる極意にあり、先手を取って一刀で相手を制する技法であった。戦国時代において卜伝は「剣聖」と称えられ、その名声は京の将軍にまで及んだ。第13代将軍・足利義輝に剣術を指南したことは特に有名で、義輝は「剣豪将軍」と呼ばれるほどの腕前を身につけた。晩年には「無手勝流(むてかつりゅう)」——すなわち戦わずして勝つという境地に至ったとされ、琵琶湖の渡し船で若い武芸者に挑まれた際、相手を小島に誘い出してから船を漕ぎ出し、戦わずに立ち去ったという逸話が残る。1571年、83歳で没した。鹿島新當流は現在も鹿島神宮を中心に伝承されており、日本剣道の源流として重要な位置を占めている。
人物像
若き日は猛々しい武芸者として天下に名を轟かせたが、晩年は「戦わずして勝つ」という哲学に至った求道者。剣の道を通じて精神の高みを追求し続けた。
歴史的意義
鹿島新當流の創始者として日本剣術史に不朽の名を残す。足利義輝への剣術指南は将軍家と剣術の結びつきを象徴する逸話であり、「無手勝流」の思想は武道の精神性を深く体現している。
逸話・エピソード
無手勝流——戦わずして勝つ
晩年の卜伝が琵琶湖の渡し船に乗っていた時、若い武芸者が「天下一の剣を使うという塚原卜伝とはお前か」と挑んできた。卜伝は「私の流儀は戦わずして勝つのだ」と答え、船頭に近くの小島に寄せるよう頼んだ。若者が勇んで島に飛び降りると、卜伝は船頭に命じてそのまま船を漕ぎ出し、若者を島に取り残して去った。これが「無手勝流」の逸話として広く知られている。
真剣勝負19回・無敗無傷の剣豪
卜伝は17歳から廻国修行を始め、生涯を通じて真剣勝負(木刀ではなく真剣での一騎討ち)を19回行い、合戦には37回参加した。これだけの実戦を経験しながら、ただの一度も負傷しなかったと伝えられる。200回以上の試合で斬った敵は合計212人。この驚異的な戦績が「剣聖」の名を生んだ。
将軍・足利義輝への剣術指南
卜伝の名声は京にまで轟き、室町幕府第13代将軍・足利義輝に招かれて剣術を指南することとなった。卜伝は義輝に鹿島新當流の極意「一つの太刀」を伝授した。義輝はこの教えを体得し、「剣豪将軍」と呼ばれるほどの腕前に達した。1565年、松永久秀らに襲撃された際、義輝は名刀を畳に何本も突き立てて次々に持ち替えながら奮戦したと伝えられ、卜伝仕込みの剣技を最期まで発揮した。
名言
「武芸の極みは、戦わずして勝つにあり」
「剣の道は一朝一夕にあらず。千日の稽古を鍛とし、万日の稽古を練とす」
「卜伝、渡し船にて島に渡り、挑む者を置き去りにす。これぞ「戦わぬ剣」なり」
ゆかりの地 — 2
鹿島神宮
茨城県
戦国時代の剣豪・塚原卜伝は、延徳元年(1489年)に鹿島神宮の神官・卜部覚賢(吉川覚賢)の子として鹿島に生まれた。幼少より鹿島の地で剣術を学び、鹿島神宮の武神・武甕槌大神への信仰を基盤として「鹿島新當流」を創始した。生涯19度の真剣勝負に無敗、37度の合戦に参加しながら一度も傷を負わなかったと伝わる伝説的な剣聖であり、鹿島神宮の武神信仰と日本剣術史を結ぶ最も重要な人物のひとりである。
塚原卜伝の墓
茨城県
塚原卜伝は鹿島神宮の神官・卜部覚賢の子として生まれ、鹿島の太刀を学んだ後に諸国修行の旅に出た。生涯19度の真剣勝負に全勝し、37度の合戦に臨みながら一度も傷を受けなかったと伝えられる。晩年は鹿島に戻り、鹿島新當流を大成してこの地で没した。
この人物のクイズ
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─ 完 ─
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