天文23年(1554年)、近江国浅井郡(現・滋賀県長浜市)に生まれる。はじめ浅井長政に仕えたが、天正元年(1573年)の浅井氏滅亡後は織田氏に属し明智光秀の与力となった。天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いでは福島正則・加藤清正らとともに武功を挙げ、「賤ヶ岳七本槍」の一人に数えられて山城国に3000石を与えられた。天正13年(1585年)、羽柴秀吉の四国征伐後に淡路国洲本3万石の大名となり、朝鮮出兵(文禄・慶長の役)での経験を踏まえて洲本城を近世城郭へと大改修、水軍の拠点として整備した。この際に築かれた「登り石垣」は全国でも数例しかない貴重な遺構として現存する。24年にわたり洲本城主を務めた後、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは当初西軍に属したが、小早川秀秋の東軍寝返りに乗じて戦の最中に東軍へ寝返り、所領を安堵された。慶長14年(1609年)、伊予国大洲に加増転封。元和3年(1617年)に出家して臨松院と号し、寛永3年(1626年)、73歳で京都にて没した。