脇坂安治
脇坂安治
賤ヶ岳七本槍・淡路水軍を率いた武将
1554-1626 · 享年 72歳
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洲本城
兵庫県
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生涯
天文23年(1554年)、近江国浅井郡(現・滋賀県長浜市)に生まれる。はじめ浅井長政に仕えたが、天正元年(1573年)の浅井氏滅亡後は織田氏に属し明智光秀の与力となった。天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いでは福島正則・加藤清正らとともに武功を挙げ、「賤ヶ岳七本槍」の一人に数えられて山城国に3000石を与えられた。天正13年(1585年)、羽柴秀吉の四国征伐後に淡路国洲本3万石の大名となり、朝鮮出兵(文禄・慶長の役)での経験を踏まえて洲本城を近世城郭へと大改修、水軍の拠点として整備した。この際に築かれた「登り石垣」は全国でも数例しかない貴重な遺構として現存する。24年にわたり洲本城主を務めた後、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは当初西軍に属したが、小早川秀秋の東軍寝返りに乗じて戦の最中に東軍へ寝返り、所領を安堵された。慶長14年(1609年)、伊予国大洲に加増転封。元和3年(1617年)に出家して臨松院と号し、寛永3年(1626年)、73歳で京都にて没した。
人物像
賤ヶ岳七本槍の一人に数えられる武勇の士でありながら、関ヶ原では戦況を見極めて東軍に転じるなど、生き残りの嗅覚にも長けた武将。水軍運用の経験を石垣普請に応用する技術眼も持ち合わせていた。
歴史的意義
洲本城の登り石垣は脇坂安治が朝鮮出兵の経験を活かして築いた全国でも稀少な遺構で、2017年に続日本100名城に選定される際の評価ポイントとなった。淡路水軍の拠点としての洲本城の姿は現在もその石垣に見ることができる。
さらに深く
家系図
本人
脇坂安治
1554-1626
次男
1584-1653
脇坂安元
家督を継ぎ伊予大洲藩主となった。
─ 完 ─
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