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PERSON
徳川吉宗
徳川吉宗
第8代将軍・享保の改革
1684-1751 · 享年 67歳
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生涯
江戸幕府第8代将軍。紀州藩主から将軍となった(1716年就任)。就任当初の幕府は財政逼迫に陥っており、吉宗は「享保の改革」を断行した。上米の制(大名に米を献上させる代わりに参勤交代を緩和)・足高の制(有能な人材を適材適所に登用する制度)・公事方御定書(司法制度の整備)・目安箱の設置(庶民の意見聴取)など多岐にわたる政策を実施した。また洋書の輸入制限を緩和して蘭学の発展を促し、小石川養生所を設置して医療福祉にも尽力した。米相場の安定化にも注力したことから「米将軍」とも呼ばれる。徳川家の傍流から将軍となり、衰退しかけた幕府財政を立て直した名君として評価が高い。
人物像
質実剛健で無駄を嫌う実務家。自ら質素な生活を実践し幕府全体に倹約を求めた。庶民の声に耳を傾ける柔軟さも持ち、目安箱設置に象徴される民意重視の姿勢は当時としては斬新だった。乗馬・鷹狩を好む剛健な武人でもあった。
歴史的意義
享保の改革は松平定信の寛政の改革・水野忠邦の天保の改革と並ぶ「江戸三大改革」の一つに数えられる。テレビドラマ「暴れん坊将軍」の主人公モデルとして広く知られ、質実剛健な将軍像の象徴。紀州東照宮はじめ和歌山県には吉宗ゆかりの地が多く残る。
逸話・エピソード
目安箱——庶民の声を政治に届ける革命的仕組み
1721年、吉宗は江戸城評定所の前に「目安箱」を設置し、身分を問わず庶民が直接将軍に意見・陳情を投書できる制度を作った。この箱に投じられた投書がきっかけとなって小石川養生所(無料の医療施設)が開設されるなど、庶民の声が実際の政策に反映された先例として高く評価される。将軍への直訴を制度化したこの試みは、当時としては極めて革新的だった。
享保の改革と「米将軍」の実像
財政難に苦しむ幕府を立て直すため、吉宗は「上米の制」(大名から米を上納させ参勤交代の江戸滞在を半年に短縮)や「足高の制」(実力に応じた人材登用)など多彩な改革を断行した。また米相場の安定化に腐心したことから「米将軍」と呼ばれた。吉宗の倹約精神は徹底しており、自らも木綿の着物を着て質素な食事をとり、幕府全体に節約を求めたと伝えられる。
関連する歴史的事件
1716
享保の改革
享保元年(1716年)から延享2年(1745年)までの約30年間、8代将軍・徳川吉宗が主導した江戸幕府の財政再建と幕政改革。寛政・天保の改革と並ぶ江戸三大改革の最初かつ最大の成功例とされる。紀伊徳川家から本家を継いだ吉宗は、財政破綻寸前の幕府を立て直すため、自ら木綿の着物を着るなど率先して徹底した倹約令を発し、大名に石高に応じた米を上納させる「上米の制」、新田開発の奨励、年貢を定免法に切り替えて収入を安定化させた。町人層からは目安箱を設置して意見を集め、小石川養生所(貧民医療)や町火消「いろは四十八組」を創設。1742年には裁判・行政の基本法典「公事方御定書」を編纂し、さらに「足高の制」で有能な人材を能力に応じて登用する道を開いた。一方、年貢増徴や享保の大飢饉(1732年)で農民は困窮し、百姓一揆が多発した。吉宗は「米将軍」と呼ばれ、テレビ時代劇『暴れん坊将軍』のモデルとしても知られる。
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ゆかりの地 — 3
小菅神社
東京都
享保年間、第8代将軍・徳川吉宗は江戸近郊での鷹狩を奨励し、現在の小菅神社一帯(当時は関東郡代伊奈家の下屋敷)に鷹狩の休憩所として「小菅御殿」を造営させた。吉宗は将軍親政と殖産興業を重んじた「享保の改革」で知られ、鷹狩は単なる遊楽ではなく武芸の鍛錬・民情視察・近郊の林野管理を兼ねた政策的行為であった。小菅御殿はその実践の場の一つであり、続く9代将軍家重もこの御殿を鷹狩のたびに利用した。御殿の跡地は現在の東京拘置所に重なるが、小菅神社の境内はその跡地の一角に当たり、徳川将軍家の鷹狩文化を現代に伝える数少ない聖地となっている。
田中本陣跡
神奈川県
8代将軍・徳川吉宗は享保の改革の一環として民政・財政の立て直しを進め、全国の有能な町人・農民から意見を徴した。川崎宿の田中本陣3代当主・田中休愚(丘隅)は享保6年(1721年)頃、幕府に上申書『民間省要』全三部を提出。民間の実情・農村財政・治水・宿駅疲弊などを具体的に論じた経世書として吉宗に激賞され、享保8年(1723年)には幕府に登用されて勘定支配格に昇進、以後多摩川・相模川・酒匂川の治水事業を統括した。宿場の一名主から幕府官僚へと異例の抜擢を受けた休愚は、吉宗の実用主義・町人登用政策を体現する人物であり、川崎宿の田中本陣は単なる本陣を超えて、享保の改革を支えた民間経世家の本拠地となった。
桃園稲荷神社
東京都
享保年間(1716-1735年)、8代将軍・徳川吉宗は5代将軍綱吉の生類憐みの令で廃止されていた鷹狩を復活させ、享保元年(1716年)9月には中野にも鷹場を再興した。鷹狩のため度々中野を訪れるようになった吉宗は、この一帯の景観を愛し、享保5年頃から桃の木を植えさせて景勝地「桃園」を造らせた。桃園は将軍の御遊息の場として整備され、後には庶民にも開放されて江戸の花見文化の礎となった。現在の中野駅南口一帯に広がっていた桃園の記憶は、当社の社号「桃園稲荷」と旧町名「桃園町」、そして『江戸名所図会』の記録に残されている。
─ 完 ─
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