1338年、顕家は再び奥州から大軍を起こした。東国を南下しながら鎌倉を経由し、東海道を西進した。この進軍は数千キロに及ぶ長距離行軍であり、その指揮能力の高さを証明するものだった。
しかし畿内に入ると、高師直(こうのもろなお)率いる尊氏方の大軍が待ち構えていた。1338年5月、和泉国石津(現・大阪府堺市)で両軍は激突した。
顕家は石津の戦いで力尽き、21歳という若さで壮絶な戦死を遂げた。楠木正成が同年5月の湊川の戦いで討死したのと同じ年のことであった。
戦死の直前、顕家は後醍醐天皇に対して長文の諫奏文を奉った。その内容は鋭い政治批評であった。
建武政権の問題として顕家が指摘したのは、公家優先・武士軽視・論功行賞の不公平の三点である。「天下国家のことを思い、私欲を捨てよ」という訴えは、後醍醐天皇の政治の本質的な失敗を21歳の若者が見事に言い当てたものとして、後世に「末代の賢将」と称えられる所以となった。