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60年の南北分裂を終わらせた——足利義満と南北朝の統一
足利尊氏の時代から約60年続いた南北朝の分裂を、孫の義満が1392年に終結させた。二つに分かれていた天皇家を一つにまとめ、さらに「日本国王」として明(中国)と対等に貿易を行った。義満の外交手腕と統一の意義を解説する。
深く読み解く一冊
目次
MOKUJI
南北朝の分裂とは
義満による統一
「日本国王」としての外交
ゆかりの地を訪ねよう
よくある質問
金閣寺——南北朝を統一し日明貿易を始めた義満の絶大な権力を象徴する楼閣
Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0
「天皇が二人いる」——そんな異常事態が、約60年も続いた時代がありました。南北朝時代です。
その分裂を終わらせたのが、室町幕府三代将軍・足利義満でした。
南北朝の分裂とは
話は義満の祖父・足利尊氏の時代にさかのぼります。
1336年、尊氏に京都を追われた後醍醐天皇は、奈良の吉野に逃れて独自の朝廷(南朝)を立てました。一方、京都には尊氏が立てた天皇(北朝)がいました。
こうして「南朝」と「北朝」という二つの朝廷が並立する異常事態が生まれました。両者は「自分こそが正統な天皇だ」と主張して対立を続けました。
後醍醐天皇肖像——南朝を開いた天皇。その分裂を、約60年後に義満が統一して終わらせた
Wikimedia Commons / Public Domain
義満による統一
義満は武力と外交を巧みに使い、南北朝の統一を目指しました。
1392年、義満は南朝の後亀山天皇に「三種の神器を北朝の後小松天皇に譲れば、今後は南朝と北朝が交代で皇位を継承する」という条件を提示しました。
南朝側はこの条件を受け入れ、後亀山天皇が京都に戻って神器を譲りました。こうして約60年続いた南北朝の分裂は終結したのです。
(ただし「南北交代で皇位を継ぐ」という約束は後に守られず、北朝系が皇位を独占することになりました)
「日本国王」としての外交
鹿苑寺の茶室——南北朝統一と日明貿易の利益が、義満の北山文化の繁栄を支えた
Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0
南北朝を統一した義満は、外交でも大きな成果を上げました。
1401年、義満は明(みん、当時の中国)に使者を送り、国交を開きました。明の皇帝は義満を「日本国王」として認め、勘合貿易(かんごうぼうえき)と呼ばれる正式な貿易が始まりました。
この貿易で日本は明から銅銭・生糸・陶磁器を輸入し、刀剣・硫黄・漆器を輸出して莫大な利益を得ました。
「日本国王」という称号には批判もありました。「天皇をさしおいて将軍が国王を名乗るのか」という声です。しかし義満は実利を優先し、明との貿易による利益を幕府の財政基盤としました。
ゆかりの地を訪ねよう
金閣寺(鹿苑寺)(京都市北区)は南北朝を統一し日明貿易を始めた義満の権力を象徴する世界遺産です。
足利義満のゆかりの地一覧でほかのスポットも確認してください。
よくある質問
義満はなぜ「日本国王」を名乗ったの?
明との貿易には「明の皇帝に臣従する」という形式が必要でした。義満は実利(貿易の利益)のために、形式上「日本国王」という称号を受け入れたとされます。
南北朝統一後、対立は完全になくなったの?
表面上は統一されましたが、南朝の子孫が「後南朝」として時々反乱を起こすなど、火種は残りました。完全に安定したわけではありません。
最終更新日:2026年6月3日
── 了 ──
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