山口市本町に位置する浄土宗西山禅林寺派の寺院(山号:霊瑞山)。もとは「特留山・慈観堂」と称し、約1,000体の仏像を安置する霊場として知られていた。大永2年(1522年)、病に伏した大内義興が当寺僧侶の祈祷により快復すると、義興は「長寿」の二文字をしたためた礼状を送り、これを機に「長寿寺」と改称した。境内には鎌倉時代後期(1306年頃)の花崗岩製十三重石塔(高さ5.45m)が現存し、山口県内でも数少ない中世石造物として知られる。本堂と鐘楼の間に通路があり、堂内を通り抜けられることから「抜け寺」とも呼ばれる。慶応元年(1865年)には尊王攘夷の志士・小森清五郎が鴻城隊を組織し、当寺を拠点として活動した。山口大神宮・サビエル記念聖堂に隣接する亀山公園の南側に位置し、「西の京」山口の歴史エリアの一角をなす。
創建年代は不詳だが、室町時代には「特留山・慈観堂」として約1,000体の仏像を安置する霊場として知られていた。大永2年(1522年)、周防・長門の守護大名として西国最大の勢力を誇った大内義興(1477〜1528年)が病に伏した際、当寺の僧侶が平癒を祈願する祈祷を執り行った。義興はその甲斐あって快復し、感謝の礼状に「長寿」の二文字をしたためて寺へ送った。これを機に寺名を「長寿寺」と改め、霊瑞山の山号を冠した。毛利隆元の七十七回忌法要が当寺で営まれたとの記録も残り、大内氏滅亡後も毛利氏との繋がりが続いていたことが窺える。境内の花崗岩製十三重石塔(高さ5.45m)は鎌倉時代後期(1306年頃)の作と…