室町時代後期、大和国添上郡狭川郷を領した狭川福岡氏が築いたと伝わる。戦国期には松永久秀の支配下に置かれ、のちに筒井氏へと帰属した。天正10年(1582年)の本能寺の変では、城主・福岡干基(もとき)が織田信忠に従い討死したと伝えられる。その子・福岡干孝(もとたか)は関ヶ原後に土佐藩主・山内一豊に召し抱えられ3,000石を拝領、土佐福岡家の祖となった。この家系から幕末・明治期に福岡孝弟(たかちか)が出て、五箇条の御誓文の起草者の一人となり、明治新政府の参議・司法卿を歴任した。廃城の時期は詳らかでないが、関ヶ原(1600年)前後に機能を失ったと考えられる。